シンガポールのリー・クアンユー元首相はかつて、次のように指摘した。戦後ドイツの実業家や資本家の履歴には、戦時中の経歴がすべて残っている。戦争に参加したことがあるか、捕虜になったことがあるかなど、包み隠さず記載されている。だが日本人の履歴は1937年から1945年までが空白で、まるでその日々がなかったかのように扱われている。(文:劉少華。人民日報海外版掲載)。
「まるでその日々がなかったかのように」扱われているのは、日本人の一部が自らに直面する勇気を持たないためだ。歴史教科書の強引な修正、歴史問題に対する歯切れの悪さ、被害を受けたアジアの国からの真っ当な要求への否認や回避は、すべてその表れである。
例えば菅義偉官房長官は最近、南京大虐殺資料の世界記憶遺産への申請を「日中関係の過去の一時期の負の遺産をいたずらに強調するもの」と退けた。この件に対する安倍首相の考えはわからないが、アジアの人々の思いを踏みにじって靖国神社参拝を強行した安倍首相を非難しているようにも聞こえる。
中国人が経験したこの重い歴史は、どの角度から言っても、全人類が共有すべき記憶の一部であるはずだ。世界は、アウシュヴィッツ収容所を記憶せねばならないように、南京大虐殺を覚えておかねばならない。世界は、「アンネの日記」を必要とするように、「程瑞芳日記」(南京大虐殺を記録した日記)を必要としている。世界は、ナチスの犯罪の証拠を永久に保存せねばならいように、旧日本軍の南京での暴行のフィルムや証言、判決書を永久に保存しておかねばならない。
ルース・ベネディクトは有名な著書「菊と刀」で、「恥の文化」を基調とした日本文化においては、間違いを認めたり懺悔したりすることで人は解放されることはない。逆に、間違った行為があからさまにならなければ悩むこともないと指摘した。
つまり一部の日本人の「1937年から1945年までの空白」は、彼らの記憶の空白を示しているのではなく、世界の記憶においてこの間が空白であってほしいという彼らの願いを示しているのである。こうした人々が恐れるのは、間違ったことをするということ自体ではなく、間違ったことをしたことを覚えている人がいるということなのである。
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