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北京週報>>中国と日本  
日本のアニメ界に絶大な影響を与えた手塚治虫
 

 

手塚治虫

 「日本のアニメ」というと、中国の多くの人が鉄腕アトムやドラえもん、ちびまる子ちゃん、スラムダンクなどを頭に思い浮かべる。第二次世界大戦前、日本のアニメは愛好者の趣味といった程度だったが、西洋文化が取り入れるようになって以降、一部の漫画家達が、欧米のアニメから学ぶようになり、やがてアニメ産業は急速に発展を遂げた。現代快報が報じた。

 手塚治虫が漫画界に革命

 新旧の観念や様式が入り混じっていた戦後間もないころの日本では、一コマごとに絵とセリフが入ったストーリー漫画が流行していた。1947年、漫画家としてデビューしたばかりだった手塚治虫が、漫画のコマ割りにカメラワーク的な画面構成を取り入れる映画的手法を採用し、キャラクターに躍動感を持たせた。また、漫画に「パッ」や「ドーン」といった、擬音を入れた。当時まだ19歳だった手塚治虫が、日本人の漫画に対する見方を根底から覆し、多くの人が「漫画ってこんなふうにもできるんだ!」と歓声を上げた。

 その後1951年に、手塚治虫は代表作の「鉄腕アトム」の前身となる「アトム大使」を連載し始めた。その12年後の63年、自作をもとに日本初となる30分枠のテレビアニメシリーズ「鉄腕アトム」を制作し、「漫画界の巨匠」の地位を確固なものにした。そのほか、53年には「少女クラブ」(講談社)にて「リボンの騎士」の連載を開始。以後の少女雑誌における物語漫画の先駆けとなった。このように、手塚治虫は、さまざまな対象読者にさまざまなアイディアを提供し、日本の漫画史上に一里塚を築いた。そのようにして、日本の漫画は、少年漫画、少女漫画、成人向け漫画、SF漫画などさまざまなジャンルに分類されるようになり、産業化が本格的に始まった。

 手塚治虫は、ディズニーの影響を強く受け、自身のプロダクション・手塚プロダクションを立ち上げた。しかし、技術だけではディズニーを超えることはできないと考えた手塚治虫は、技術路線ではなく、ストーリーを中心にした路線を歩み、アニメーション界に革命を起こした。また、制作費を削減するため、キャラクターの体はそのままで目や口だけを動かすなど、動きを簡略化しセル画の枚数を減らす表現手法であるリミテッド・アニメーションを採用した。ディズニーのアニメーションでは、キャラクターの口の形と声が合うように作られているが、手塚治虫の手法では、キャラクターが口を動かすだけだ。手塚治虫は映画には興味がなく、テレビを見られる人だけに、アニメーションを見てもらいたいと考えていた。

 手塚治虫に続き、日本では、宮崎駿や藤子不二雄、永井豪など才能にあふれる漫画家が次々に登場し、「ドラえもん」や「機動戦士ガンダム」、「NARUTO -ナルト-」などの名作が誕生した。これらの作品は、芸術的観点から見ても、商業的観点から見ても、大きな成功を収め、アニメブームが今に至るまで続いている。

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