略歴:
方軍氏は1954年に北京に生まれる。18歳で軍隊に入り、1980年より北京朝陽職工大学の日本語学科で学ぶ。1984年に読売新聞北京支社に入社し、在日本国中国大使館領事部に転職。1991年に日本留学を開始し、1997年に帰国した。著書「我認識的鬼子兵」(私が知る日本兵)は、中国政府の中国図書賞、優秀図書賞を受賞。「最後一批人」(最後の人々)、「戦争最後的証言者」(戦争の最後の証言者)、「最後一次集結」(最後の集結)、「浙江永康―最後的抗戦老兵」(浙江永康―最後の抗戦老兵)などを出版。方軍氏は現在、中国作家協会に所属する作家だ。すべての文章はルポルタージュの形式をとり、抗戦に加わった元兵士の取材に基づいた内容となっている。
インタビュー内容:
記者は作家の方軍氏と知り合ってから、ちょうど10年になる。方氏は日本留学中に、中国を侵略した日本軍の元兵士を取材し、帰国後に「我認識的鬼子兵」を出版した。その後さらに、戦争を経験した日本の元兵士、八路軍新四軍の元兵士、抗日連軍の元兵士などを自費で取材した。人民網の「日本チャンネル」も方氏を招き、中日フォーラムでネットユーザーとの交流を促進したことがある。また方氏に「日本チャンネル」で専門コーナーを開き、取材した「最後の人々」について紹介してもらった。取材の経歴と、自身が記した「最後の人々」について語り始めると、止まらなくなってしまうという方氏。取材と著作は方氏の生活のすべてであり、それは今も変わらない。方氏の創作の道は、日本留学から始まった。
■食いはぐれのない働き口を捨てて日本留学
記者:日本留学を決めた理由は何ですか?
方氏:読売新聞中国本部や領事館で勤務していたため、多くの日本留学経験者と接触する機会があり、日本に行ってみようと思いました。当時すでに37歳でしたが、海外留学を決めたんです。読売新聞社の社長が推薦状を書いてくれ、かつ私は領事部で勤務していたため、出国の手続きはスムーズに進みました。1991年に日本留学に行った時は、ただ見てみようと考えていただけで、特に明確な目的はありませんでした。日本に着くと、まず日本語学校で半年過ごし、それから札幌学院大学で学び、1997年2月に帰国しました。日本留学の最大の収穫は、外国語を学び自分の視野を広げ、「我認識的鬼子兵」という作品を書けたことです。これは抗戦の歴史に対する一つの貢献になりました。
記者:日本での経験について教えて下さい。
方氏:日本の大学は主に25歳以下の学生に奨学金を支給するため、私はアルバイトにより生計を立てていました(レストランや建築現場など)。日本留学により私の思想が活発になり、休みの時間は図書館で本を読み学習しました。私は図書館で、自分の最も退屈で寂しい時間を過ごしました。図書館は蔵書が豊富で、大量の歴史資料だけでなく、多くのビデオや音楽などがありました。私は図書館で「1億人の昭和史」(計32冊)という、日本の歴史を紹介する本を読んだのですが、この本により、私は日本人の歴史をおおまかに理解しました。その内容は日本人の利益を中心とするものでしたが、私は興味を覚えました。
記者:日本社会をどのように感じていますか?
方氏:日本で生活すると、この国が秩序正しく統治されていることに気づきます。日本のすべての政治制度(選挙制度を含む)は、1945年以降に形成されました。日本社会は民主的で、汚職撲滅が徹底されています。例えば田中角栄元首相は5億円の収賄を受け取り、実刑判決を受けました。読売新聞社の社長は、私に中国語で、「小泉純一郎氏は公用車を運転できず、菅直人氏は家を購入できない」と語ったことがあります。国会議員を長年続けていても、その給与は主に選挙活動に用いられる。これは日本社会が、民主的であることを意味しています。私が最も印象的だったのは、テレビでほぼ毎日、国会議員の論戦が放送されることでした。
また仕事の関係により、日本人と交流することが多かったのですが、私は日本人は温かみがあると思いました。
日本で約7年間生活し、日本社会が民主的だと感じました。社会保障制度が整っており、医療保険制度が健全で、誰もが病院に通えます。また税制度も公平で、貧富の格差が大きくありませんでした。
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