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北京週報>>中国と日本  
中日の映像コンテンツ交流を促進、日本留学経験者の董凡氏を訪ねて

日本に留学する際に、現地の物質面の発展(家電製品や新幹線など)の程度を見るだけではなく、一般人の高い素養を見るべきです。ハード面で中国は急速に追いかけており、これは簡単なことだが、ソフト面で追いかけるのは簡単な問題ではありません。中国人はいっそうの努力が必要です。

 


 ■80年代、日本の映像コンテンツの影響は?

 記者:出国した当時、中日関係と交流はどのような状態でしたか?

 董氏:80年代に私たちは日本の多くの映画とテレビドラマを見ました。例えば「君よ憤怒の河を渉れ」、「幸福の黄色いハンカチ」、「赤い疑惑」などは、私たちの多くに影響を与えました。また私たちが大きな影響を受けたのは、家電製品でした。当時の人々が購入しようとした3大家電製品(冷蔵庫・洗濯機・テレビ)は、ほぼすべてが日本製品でした。当時の中日関係は非常に打ち解けていて、文化・経済・政治の面で交流が頻繁でした。

 記者:日本に着いたばかりの頃、日本文化に慣れないことはありましたか?

 董氏:日本では、特に慣れないことはありませんでした。私は出国したばかりの頃、青山学院大学の学生食堂でアルバイトをしていました。私たちは学生と同じものを食べました(バイキング制)。私は仕事ができなくなるほど食べ過ぎることがよくあったが、後になり日本人が奇妙な目で私を見ていることに気づきました。私は食べ過ぎて、仕事ができなくなれば馬鹿にされると知りました。あの頃から、私は日本人が太っていることを誇りとせず、痩せている方がよいとしていることが分かりました。私の知る限り、日本から帰国した人の多くは痩せ気味で、太っている人は少ない。当初最も不慣れだったのは、住む場所です。木造のアパートで、部屋の地面には畳が敷かれており、面積は3畳半のみでした。私は当時、一緒にやってきた北京の同級生と二人暮らししていたため、非常に狭く感じられました。しかしあの頃はとても清潔な環境でした。

 ■映画「故郷の香り」の撮影に参加、東京国際映画祭で受賞

 記者:日本での学習と、それから映像コンテンツを専門としたことに、何かつながりはありますか?

 董氏:実際には何の関係もありませんでした。私は法学部出身で、父が貿易を専門としていたため、経済を学ぼうと考えていました。日本の大学では、経済面の専攻が豊富です。私はビザを取得するため、一つの専攻を適当に選択しました。

 記者:その後、日本で就職したのですか?

 董氏:日本留学から4年後に仕事を始め、JCB社に就職しました。この会社はNHKと、文化交流関連の事業を推進していたのです。初めは事務所内の仕事が多く、主に書類や契約書などを作成していました。この会社はその後、中国中央テレビ(CCTV)やNHKの間に立ち、テレビ番組を撮影しました。中日初合作となったテレビドラマは、「大地の子」だ。このテレビドラマの撮影を完了してから、私は国内でやることを沢山抱えていたので帰国しました。96年頃、NHKはまた大きなイベントを実施しました。NHKは四川電視台と協力し、重慶市から湖北省宜昌市までの風景を、4日連続で世界生中継しました。これは当時、ギネスブックに登録されました。それまで日本では、100人(記者、撮影スタッフ、監督など)を超える規模のスタッフを動員し中国で番組を撮影することは少なかったのです。中国側も多くのスタッフを派遣し、双方を合わせて約400人に達しました。撮影期間中、私たちは3隻の船を借りて三峡に入り撮影し、三峡の両岸でも多くのカメラマンが撮影しました。三峡に関するこのドキュメンタリーは衛星中継され、中日両国に深い影響をもたらしました。このドキュメンタリーが放送されてから間もなく、日本のある財団が中国を視察し、視察後に中国側と資金援助に関する契約を締結しました。私はその後1998年に、広東省・深セン市・珠海市で西城秀樹のコンサートの企画に加わりました。私は帰国後、常にこの業界内で働いており、主に中日の文化交流に携わっています。多くの時間を特別番組の撮影に費やし、それから世界文化遺産も撮影しました。他にも多くのアニメとテレビドラマを導入しました。そのうち「赤い疑惑」が再び導入され、天津電視台で高視聴率を記録しました。それは温家宝前総理の訪日、「破氷の旅」の年でした。他にも文化の輸出も手がけており、「我愛北京」、「キープ・クール(有話好好説)」などを輸出しました。


 記者:撮影に加わった映画「故郷の香り」が、東京国際映画祭で賞を受賞しましたが、当時の撮影の状況について聞かせてください。

 董氏:2001年に、私は映画を撮影しようと思いました。中国の映画市場は当時それほど思わしくなかった。映画撮影のアイデアが出てから、多くの作家の小説に目を通し、莫言の短編小説「白い犬とブランコ」に出会った。読後、この作品が映画化に適していると感じ、衝撃を受けた。ちょうどその年の春節の頃、日本のノーベル文学賞受賞者である大江健三郎が、春節に中国東北部の莫言を訪れ、同じテーブルに座り餃子を食べたという記事を目にしました。私は当時、莫言が日本でとても有名なのだと思ったのです。これはその後の仕事の基礎となりました。それからは、監督探しです。私は霍建起監督の「山の郵便配達」という作品が、日本で優れた興行成績を記録したことを思い出し、霍監督に連絡を取り、すぐに意気投合しました。撮影は順調に進められ、大きな問題はありませんでした。映画が公開されたのは、SARSが流行した2003年です。東京国際映画祭は、11月1日から5日にかけて開かれました。金鶏賞、百花賞は10月末でした。私たちはまず金鶏賞、百花賞の方に出席し、最高賞の金賞、最優秀作品賞、脚本賞を受賞しました。それから間もなくして東京国際映画祭に参加し、東京グランプリと優秀男優賞を受賞しました。耳の不自由な障害者を演じたのは、日本人俳優の香川照之です。東京グランプリは中華人民共和国の建国から初めての受賞で、この空白を埋めることができました。

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