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北京週報>>中国と日本  
「戦争の記憶」と真摯に向き合う研究者 山口直樹さん
 
 
研究者 山口直樹

 ----- これまでの学術交流会の中で印象深い会はどの回でしょうか?
 それぞれの回が、意義深く面白いものになっていますが、学術的に印象に残っているという意味では、第8回の銭昕怡(中国人民大学講師)さんによる「吉野作造の日中提携論:第一次世界大戦から国民革命期にかけて」の回でしょうか。というのも、初めて中国人の研究者として本格的に研究を発表してくださったのが銭さんだったということもあります。

 実は、銭さんに講演をお願いした経緯としては、書店で偶然、銭さんの著書(同志社大学に出した博士論文を本にまとめたもので日本語で書かれていました。)を見つけて、それを読んで、あぁこれはいいな、面白いなと思って、ネットで連絡先を調べて直接交渉するという、1本釣りのようなアプローチの仕方でお願いしました。先方もまさか日本人から連絡が来るとは思ってなかったらしくて、とても驚いていましたが、快く引き受けてくれました。

 実際に、発表してもらったら非常に緻密に吉野作造のことを研究されていて、参加人数は20人弱でしたが、資料とかもきっちりと完成度の高いものを作ってきて下さって、凄く濃密な議論になりました。また、通常の講演会とかともひと味違った、現代日本と現代中国の問題を同時に考えるとともに、政治思想史の中から現代日本と現代中国の問題を考えるという非常にアカデミックな内容となっていました。参加者も日本人だけでなく、中国人も参加していて、学術交流会として私が求めていたような場が中国人のスピーカーで実現できたという思いがして、非常に印象に残っています。

 ----- 初めての中国人の講演者ということで参加者の反応は如何でしたか?またこれによって学術交流会にどんな変化が起きたのでしょうか?
 参加者の方にも感想を聞きましたが、学生時代以来の感覚だとか、みんなおしなべていい反応を示してくれて、本当に純粋な意見交換が出来たのですごく良かったです。
 銭さんは専門の研究ポストではなく、日本語を教える講師として人民大学で働いている方でしたが、それが縁になって、人民大学で私がゴジラの講演を行ったりして、そこから「北京ゴジラ行脚」というゴジラの魅力を語る講演が始まったりと、さらに人脈と活動が広がっていくきっかけにもなりました。
 また銭さんの後輩に児童文学を専門に研究されている徐園さんという方がいて、その方を紹介してもらって、講演をお願いしたこともあります。徐園さんは日本の戦前の新聞の4コマ漫画の研究をしている方で、日本人でもその分野を研究している人は少なく、中国人として初めてそれを本格的に研究して、同志社で博士号を取得されています。その方の博士論文の目次を出して、学術交流会でお知らせを出したら、日本僑報社という出版社を経営している段躍中(だんやくちゅう)さんという方が見ていて、「うちの出版社から出版したい」と言う話になり、実際、そこから論文が本として出版されました。その論文「日本における新聞連載子ども漫画の戦前史」は第14回華人学術賞受賞作品に選ばれ、朝日新聞をはじめ、多くのメディアで書評が出るなどして紹介されました。このように学術交流会がきっかけで本が出版されたりと、かなり様々な分野に影響を与えています。

----- 2012年3月11日に起きた東日本大震災直後に行われた第32回の「日中原子力テクノロジー再考」の回も反響が大きかったそうですね。
 実は私は3月9日の夜まで仙台にいたんです。東北大学で学んだので、知り合いも多いですし、私にとって仙台は第二の故郷であり、青春の街です。日本に帰国する時も仙台に寄ることが多く、その時もたまたま仙台を訪れていました。3月9日夜に日本を離れて、10日に北京に戻り、翌日にあの東北大震災が起きました。本当にぎりぎりのところで北京に戻ってきたのです。11日の地震直後に俳優の宝田明さんから連絡を頂いて、それで初めて地震を知ったのですが、その後こっちでも繰り返し福島の原発が爆発する様子が映像で流れました。実は東京電力の勝俣会長は、大地震が起こった当日は、北京に滞在していたんですね。これは忘れられてはならないことです。

 これは大変なことになってしまったと思いました。ゴジラを研究している手前、これは覚悟を決めてやらないと駄目だと思い立って行ったのが「日中原子力テクノロジー再考」という報告でした。

 4月末に10ページぐらいに渡る長文の案内を出したら、かなり反響がありました。それをそのまま転送してブログに掲載させてくださいという話があったり、実際に「わかりやすい原子力」といった見出しで掲載されたりとか、中国人からも日本人からも同様に反響がありました。その回は、北京大学の教室で行いましたが、30人以上の人が来ました。やはり余談を許さないタイミングで行ったので、みんな顔つきが違うというか、本当にどうなるんだろう?

 という感じで、原子力について知りたいという参加者の方の気持ちがひしひしと伝わってきました。私も講演の準備はまったくしていなかったんですが、個人的に原子力の歴史には興味を持っていたので、それをゴジラと関連づけて話しました。日中の原子力の歴史を報告する中でゴジラが映画「ゴジラ」(1954)で破壊したテレビ塔は、「原子力の平和利用」を大々的に宣伝したテレビ局、日本テレビのものだったという指摘をしました。そういう意味では私ならではのことがやれたかなと思っています。

 また、フランスなどでは在仏日本人が反原発デモを行ったりしていますが、中国にいる日本人社会ではほとんど何も行われませんでした。北京で経済産業省の説明会というのはありましたが、中国の日本人で誰も市民的な立場から原子力のことを報告していない中で、学術交流会でそれを行えたことは、大きな意義を持つのではないかと思っています。

----- 通常の学術交流会とは別に、日中サイエンスカフェや日中歴史カフェなど、映像を中心にして討論する機会も新たに作られていますよね。
 カフェというのは、「日中原子力テクノロジー再考」の回の後に、「放射能と原子力を考える日中サイエンスカフェ」を行ったのが最初でした。

 もともとサイエンスカフェというのはイギリスから始まっていて、1990年代に専門家と一般市民の対話の場として出来たんです。日本でも2000年ぐらいから行われていたんですが、私も中国に来て、それをやるようになるとは正直全く思っていませんでした。ただ、3.11の東日本大震災をきっかけに、これだけ一般の人の放射能や原子力に対する関心が高まっているのだから、何かできないかと思って行ったのが、日中サイエンスカフェなんです。中国で日本人と中国人が集まってサイエンスカフェをやるというのは多分これが初めてだったと思います。

 サイエンスカフェといってもいろいろなやり方がありますが、私の場合は、映像をメインに使いました。なぜ映像を使ったかというと、専門知識が必ずしもなくても、映像というのは見ればいいわけですよね。見て、自分がどう感じたかということを言ってもらう。正解というのはかならずしも一つではないし、唯一の正解を探り当てるためのものではないんだということを一般の方に言っておいて、色んな意見交換をして、そこから何か新しいものを見つけ出していくということをやりました。

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