しかし、清張革命の影響力は推理小説の範囲や文学の領域だけにとどまらない。より深い含意は、新しい「戦後心理」の形成と新たな正義感の大胆な模索にある。清張は小学校しか出ておらず、実家は貧困だった。小倉時代にも、安定した仕事に就けず、たいした収入がなかった。1929年、20歳の時には小倉警察に逮捕され竹刀で痛打される拷問を受けた。1943年、特高警察に監視されていた清張は赤紙(召集令状)を受け取り、正社員になって間がなかった朝日新聞での仕事に大きく影響した。これらの経歴は、清張に日本社会が持つ違う一面を目撃および実感させ、一生を通して国家体制に不信感による敵意を抱かせた。
1950年代後半、清張は日本一のベストセラー作家としての王座を20数年にわたり守り続けてきたが、「本が売れる」ことが「人気がある」こととは限らない。実際、清張は今までずっと日本で「最も人気のある」作家ではなかった。
「文化勲章」を受賞したこともなければ、「国民栄誉賞」を受賞したこともない。日本政府、一般市民のいずれにせよ、戦後の日本文壇における左翼作家を挙げる際、ほとんどが意識的に清張を避ける。川端康成や三島由紀夫、安部公房、ひいては後の村上春樹などはいずれも大量に英訳本が出版されているのに対し、日本人が一番読んでいる清張の作品はずっと日本から外に出られないままだ。
この現象にかかわっているのは通俗文学と純文学の隔たりだけではない。さらに重要なのは、日本人はおしなべて外国人に清張の筆を通して日本を見たり、理解したりしてほしくないのだ。
もし清張の全体的な作風を代表する一作を選ぶとしたら、個人的には必ず「日本の黒い霧」を選ぶ。日本を覆う黒い霧の存在を認めることが清張の執筆の原点といえる。この黒い霧を払いのけ、日本人に自己の醜い一面を認識させることこそ清張の使命だった。
日本人は非常に体裁を重視し、また非常に表面上の秩序と美を飾りたがる。たとえ第二次世界大戦の敗戦という大きな挫折に遭遇しても、生存した日本人は自分たちの国のどこに問題があったのか、真剣に反省することを望まないし、できないのだ。
日本の政治思想家、丸山真男氏は、戦後はばかることなく「天皇制」を批判し、日本の政治文化における戦争責任を追及した、非常に得難い「良心の鏡」だ。同じ角度から見た場合、清張と丸山真男は同じ役割を演じている。清張の「良心の鏡」は、日本人を覚醒させるのではなく、真実に気づいているのに、それから目をそらし無関心を装っている日本人に警鐘を鳴らすことだった。
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