だが実際この試合は、実力差により、中国側が先手となり、日本棋士にハンディキャップを与えた手合割で得た勝利だった。中国棋士はこの20年後に初めて本当の意味で日本を超えることになる。しかし、当時、陳氏の勝利には象徴的な意義が加わり、「陳氏の勝利は中国囲碁が日本囲碁を超える幕開けとなった」と中国著名棋士の聶衛平氏は語る。
中国の周恩来・初代総理の計らいで、1973年、国家囲碁集中訓練合宿が復活した。陳氏は再び廖承志氏率いる中国代表団員として訪日した。しかし、文化大革命の影響ですでに7年もの間まともに囲碁をさしていなかった陳氏は日本で負け続けた。ある人物が陳氏に「もう試合に出ないほうがいい」と言うと、陳さんは「試合を放棄するプロ棋士なんてどこにいる?棋士は命は要らなくても勝たなくてはならない。勝利が必要なんだ」と答えた。
この「棋仙」の人生が最後の秒読み段階に入った時、かつての英雄は呼吸器を装着し、目は涙であふれ、痩せこけて別人のようになっていた。
陳氏は今月1日夜、北京協和病院で人生の「棋局」を終えた。4日後、知らせを聞きつけた千人を超える人々が全国各地から集まり追悼会に参加した。陳氏の意思に従い、遺骨は故郷の上海にある黄浦江に撒かれた。追悼会が行われた会場のロビーには、陳氏がスーツを着て微笑んでいる写真が飾られていた。(編集MZ)
「人民網日本語版」2012年11月12日
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