対外侵略戦争は日本国民の根本的利益にならない。それなのに、侵略戦争を頻繁に起こすのはどうしてだろうか。
日本は島国であり、資源に乏しい。そのため他国の領土を占領することで日本民族の発展を図る、といった考え方がある。この「理論」は、一見して説得力がありそうだが、実際はでたらめな考えだ。強盗するためにスリを弁護するようなものである。かつて侵略戦争を始め、失敗した後に反省し、真面目になった国々は多い。そのため、現在は比較的平和である。日本の軍閥や彼らの継承者である日本の右翼たちのような、考えを変えない、悔い改めない人々は、世界では少数と言えるだろう。靖国神社には、千百年にわたって対外侵略に加担した軍人のリーダーたちが奉られている。右翼の指導者たちが毎年参拝をしているが、これは彼らの軍国主義的、反動的立場を象徴する行為である。
こう見ると、日本の歴史的な軍閥、今日の右翼たちによる軍拡の思想や文化は、我々が研究すべき課題である。筆者から見れば、いわゆる「武士道精神」は、日本右翼の偏向的で狂った行為の精神的支柱となるものである。
表面的には、武士道精神は中国古来の思想と関連がある。日本の右翼は、武士道は成立過程で儒教や仏教の精神が取り入れられてきたと言う。しかしよく調べると、言葉が似通っているだけに過ぎないことが分かる。例えば武士道は「仁、礼、誠、義」などが強調されている。これは儒教とほぼ同じ内容だ。しかし世界の知識人の誰もが知るように、儒教と仏教は「愛」と「善」のほうが重視されている。一方、武士道は残忍さと殺戮で世に知られている。しばしば切腹で自殺するばかりでなく、他人(他国民)の生命に対する尊重がまるでない。だからこそ、あれほど多くの侵略戦争が繰り広げられたのだ。そして、誰もが知る「南京大虐殺」のような残虐な悲劇が起こったのだ。儒教と仏教の精神とはまるで異なるものだ。それなのに、どうして同一視できるだろうか。
侵略戦争をしたいがゆえに、武士道精神をねじ曲げ、「忠」と「勇」の二字が強調された。これらは、侵略戦争のために惜しみなく人々の生命を投げ出させ、他国の人々の命ならなおさら惜しまないという精神を作った。現在の日本右翼の代表人物は、釣魚島の購入騒ぎを起こした石原慎太郎である。
ねじ曲げられた武士たちには、是非や善悪の区別も、ヒューマニティのかけらもない。ただ戦争機械のように忠誠と犠牲があるだけである。目的のために手段を選ばない。黒沢明はこれに憤慨し、自分の作品で武士の人間性を描いたことがある。しかし、強力な日本の戦争機械への圧力は、理性的な声を相当に弱める結果をもたらした。
ねじ曲げられた武士道精神により、正当な武士道は徐々に駆逐され、同時に、その影響は日本の様々な場所へと広がっていった。なぜなら、好戦的な軍閥が長期にわたって日本を統治してきたからである。最近発生した釣魚島の「国有化」騒ぎは、彼らの軍拡主義の妄想が表出したものである。
もちろん、日本国民の健康的な精神は、依然として彼らに冷淡だ。再び戦争の泥沼へと引き込もうとしている右翼たちに、彼らが同意することはあり得ない。著名作家の井上靖氏の立場を挙げるまでもなく、ノーベル賞作家の大江健三郎氏も最近、右翼たちの荒唐無稽な行為を果敢に非難している。まさに日本の理性と良心を代表する人物と言えるだろう。中国の読者も多い村上春樹氏も、彼ならではの語り口で、日本の政治家たちの扇動を諌めている。
「中国網日本語版(チャイナネット)」2012年10月28日 |