研修生らは多くが大連出身。帰国後彼女たちは毎日、日本の様子が気がかりだった。半年もの間、心は晴れなかったが、さきに14人が昨年12月、女川町に戻った。
日本に戻るまでの間、一人ひとりに物語があった。大連出身の一人はまだ、日本に戻ったことを家族に明かしていない。両親を心配させたくないからだ。毎回実家に電話するたび、自分は蘇州にいると告げている。取材に彼女は名前を明かさなかった。
またある一人は「今回はみんな大きなプレッシャーを背負ってきた。家族が心配して頻繁に電話を掛けてくる」と語る。「だけど人は生きているなら良心が必要。佐藤さんがいなければ、私達は生きていなかった。皆さんに恩返しできることは、ここに帰ることだけです」
女川町の漁業復興の道のりは険しい。再来日した研修生らの給与は上がらず、日本人全社員と共に苦難を乗り越える。再開した仕事は以前にも増し忙しく、研修生らの昼休みはわずか1時間。純白の作業服に身を包んだ彼女達は、カメラのフラッシュを避けた。祖国の家族に自分達の選択を知られ、苦労していると悟られなくないからだ。
しかし研修生達は知らない。地元の人々は彼女達よりもつらい生活を送っている。佐藤水産の日本人社員の自宅は全て押し流され、仮設住宅に身を寄せている。生活と会社再建の二重のプレッシャーを背負いつつも、社員らは笑みを絶やさずに、たくましく暮らしている。
大震災は一人ひとりに深い傷を残したが、研修生らとの再会と工場の再開で、希望の灯が再び宿った。(編集HT)
「人民網日本語版」2012年3月5日
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