樹静かならんと欲すれども風止まず。2012年の開始早々、日本の市議数人が釣魚島に上陸してもめ事を起こし、中日関係を再び波立たせ、国交正常化40周年の友好・祝賀ムードに冷水を浴びせた。
40年前の1972年2月、日本の著名な歴史学者・井上清は「歴史学研究」(第381期)に掲載した論文で、釣魚島の歴史と帰属問題について詳細に論じ「釣魚島は元々中国領で、甲午戦争(日清戦争)後に台湾と共に清国から日本に割譲されたものであり、当然中国に返還すべきだ」との結論を導き出した。
40年前の国交回復交渉で中国側は国交回復の大局を重視し、釣魚島問題には触れない方針を固めた。1972年7月28日に周恩来首相は公明党の竹入義勝委員長に「釣魚島問題にも触れる必要はない。国交回復と比べると問題にならない」と述べた。国交回復交渉の第3回首脳会談で、田中首相が中国側に「尖閣列島」問題への姿勢を尋ねた際、周首相は「今回は話したくない。今これを話すのは良くない」と述べた。
釣魚島問題は国交回復後の平和友好条約交渉で大きな障害となった。1974年10月3日、トウ小平副首相は日本側との会談で「交渉時は、釣魚島の主権問題は棚上げするのが良い。この問題を持ち出したら、数年経っても解決しないだろう」と指摘した。トウ氏は1978年8月10日に日本の園田直外相との会談で20年、30年の棚上げを提案したが、日本側は異議を唱えなかった。
中日国交回復交渉でも友好条約締結交渉でも日本側は「係争の棚上げ」という中国側の提案に異議を唱えず、交渉の成功を確保した。1978年以降、日本側は続けざまにもめ事を引き起こし、釣魚島に灯台とヘリポートを建設しようと企てた。1979年5月31日、トウ氏は鈴木善幸氏との会談で「係争棚上げ、共同開発」の提案を初めて行った。歴史と実践が証明するように、釣魚島問題において中日両国のとりうる最良の選択は「係争棚上げ、共同開発」だ。釣魚島問題への日本側の対応が不適切であれば、中日関係に深刻な結果がもたらされる。中日両国の有識者と無数の市民は、国交正常化40周年の際に釣魚島問題のために両国関係が後退することを望んでいない。(編集NA)
「人民網日本語版」2012年1月4日 |