日本人が紅葉を観賞する風習は昔からあり、『万葉集』や『源氏物語』にも記され、『万葉集』には、日本人が紅葉の観賞を「紅葉狩」と呼んだという記述がある。「狩」はもともと「狩猟」の意味である。紅葉の観賞が「紅葉狩」と言われるまでには、一つの経緯がある。
日本気象庁の資料によると、毎年の紅葉は北海道の大雪山国立公園から始まり、1日に27キロのスピードで南下し、約50日後に九州に到達して日本列島を赤く染める。日本人は狩人が色とりどりの野獣を追いかけるように紅葉を観賞することから、「狩」という字を用いるのは適切である。日本気象庁は春の桜の開花予想を「桜前線」と呼び、これに対して、紅葉の予想を「紅葉前線」と呼んでいる。桜前線が南から北に移動するのと逆で、紅葉前線は北から南に移動する。桜と紅葉をこよなく愛する日本人は、毎年春と秋に日本列島を行き来する。ところが、桜の鑑賞を紅葉のように「桜狩」と呼ばずに「花見」と呼ぶのは少し不思議だ。
中国人も日本人も紅葉を好むが、中国人は楓やマルバハゼが一面にわたって赤く染まる美しい様子を観賞するのが好きだ。一方、日本人は、楓を眺めながらもの悲しい感情に浸る傾向があるように思える。私個人の意見としては、桜前線が北上して散っていくにせよ、紅葉前線が南下して枯れていくにせよ、最後は花も葉も散ってしまう。特に紅葉はそうである。郭沫若氏は日本を旅行中に「紅葉経霜久、依然恋故枝」という詩をつづったが、この詩は、「どんなにあがいても生命は永遠のものではない」というどうしようもなさを深く感じさせる。
「中国網日本語版(チャイナネット)」 2011年10月19日
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