石碑は中国では特殊な意味がある。石碑を立てること自体、刻まれている人物や事柄に意義があり、石碑に刻み、称える価値があるという価値判断を示している。そのため今、哈爾浜(ハルビン)方正県にある日本開拓団の石碑に疑問の声が上がっている。「京華時報」が伝えた。
平和共存は外交政策であり、隣国には誠意をもって接しなければならない。開拓団だけでなく、日本兵の骨でも整理し埋葬するのは、生命を尊重という意味からしても意義がある。公墓の建立などは徳を以って恨みに報いるわれわれの懐の広さ、平和・友好の姿を十分に示している。
開拓団については、日本の武力侵略に伴って中国に足を踏み入れ、侵略的行為を犯したことがすでに明らかになっている。その多くは「失敗し、悲劇の移民」となったが、植民地の開拓者の「記念石碑」を残すことは、すでに生命の尊重、歴史の記録を越え、称える意味があり、捨てておけない。
地元の関係者にによると、これは碑ではなく、死亡者を記録した「壁」だという。碑にはいろいろな形式がある。建築物の性質は、その形態ではなく、その機能によって判断される。名前や事由が刻まれ、記念の意義があり、そして花まで添えられ、哀悼が捧げられている。これが碑ではなくて、何であろうか。
石に字を刻むということは永遠にその志を忘れないということだ。ドイツではユダヤ人大虐殺の記念碑がベルリンの中心に2700以上、1.9万平米の敷地に立てられているが、これは600万人のユダヤ人の亡霊を記念するものではなく、当時の暗黒を心に刻み、永遠に忘れないようにするためだとドイツ政府当局は説明する。中国にも歴史を忘れないよう、九・一八(満州事変)国恥記念碑が数々立てられている。しかし、開拓団の碑にはそうした意向は感じられないばかりか、あまりに立派過ぎて気分が悪くなり、その後の動機を疑いたくなるほどだ。
碑建立の初心について、いろいろ憶測する必要はないが、その背景には歴史認識という大問題が存在する。生命に対する最大の尊重として、石碑は現代文明の最も基本的な特徴といえるが、個別の行為と選択には警戒せざるを得ない。
開拓団の碑はある意味すでに一線を越えている。生命の尊重、平和への思いと同時に、碑に刻まれた人々がかつて国際社会の基本倫理、現代文明の基本原則に反したことを故意に忘れさせようとしているのではないか?これについては様々な弁解があり、様々に解読できるが、最も基本的なことは、歴史的観念の混乱、低層価値の喪失だ。
歴史は確かに人間が書くものだ。様々な要因により歴史の価値がぼやけ、歴史に対する基本的認識を失い、正邪の判断がつかなくなれば、国や民族の土台を失うことになりかねない。(文=金茂)
「中国網日本語版(チャイナネット)」 2011年8月3日 |