中日国交回復後はじめての国慶節祝賀会が1972年10月2日ホテルニューオータニにおいて、東京のLT貿易事務所の主催で開かれたときのことです。会場には1500人もの客がお祝いに駆けつけ、空前の賑わいでした。後日、この祝賀会を主宰した肖向前氏は次のように回顧しています。
「この日やってきた客は、7月20日に藤山愛一郎先生がわたしと孫平化のために開いてくれた歓迎会とほとんど同じ顔ぶれであった。しかし、様子はまったく違っていた。あの時はまだ願望にすぎなかったが、今回はすでに成功をおさめていたのである。……かつて荊の道を切り開いた旧い友人たちも、黙々と“井戸を掘った人びと”も、すべて招待された。」
「祝賀会が始まる前、大平外相と社会党の成田知巳委員長がかけつけた。ふたりは四国の同郷の出身だが、一人は与党、ひとりは野党で日ごろ宴会で会うことも少ないが、このときは気楽に話をはじめた。成田委員長は、大平外相に言った。
“きみは日ごろから、あー、うーと言って、話し方がはっきりしないけれど、日中の国交が回復したとき、どうしてあんなにはっきりとしたものいいになったのかと、みんなが言っているよ”
大平外相は、そのことばを聞いてにやりと笑うだけで、答えなかった。」
中日関係の発展に大きくご貢献をなされた大平正芳先生を偲ぶとき、中日航空協定の締結に触れないわけには参りません。この協定の締結によって、今まで中日間の往来はすべて香港経由で遠回りし、二三日も時間をかけなければならない状態が一変して、東京―北京間をわずか三時間ほどで直行できるようになり、両国の人民に大きな便利をもたらし、今日にいたるもその恩恵をみんながうけております。
たしか1973年末のことだったと記憶していますが、日本のメディアは大平外相が正月の休みを利用してお一人で北京を訪問するこニュースを報道しました。当時の見方は二つに分かれていました。一つは、大平外相が自ら言われているように特別な目的など無くただ個人的な旅行であるという見方、もう一つは、当時の中日関係で懸案になっていた航空協定問題の解決のためであろうと。当初、私はうわべの現象に惑わされ、休暇の可能性も除外できないと思っていました。しかし、冷静に考えてみると、たしかに大平外相はお一人で中国に行こうとしているものの、一国の外相が何の目的もなしに外国を訪問することはやはり不自然であり、航空協定を話し合う可能性がきわめて大きい、と次第に思うようになりました。
予想通り、大平外相の北京行きはやはり中日航空協定のためでした。ある意味で、大平外相にとって中日航空協定の締結は、中日国交正常化よりも厄介な問題でありました。問題は、北京航路を開通するには、今までの日台航路をどのように処理するかが焦点でした。日本側として、日台航路を放棄したくない理由が二つありました。一つは、自民党内の親台派グループへの配慮です。自民党内の台湾擁立派は、日中国交の樹立は台湾の切り捨てであり、もともと反対でしたが、正常化がすでに既成の事実になってからも、巻き返しのチャンスを狙い、航空協定締結反対を通じて田中内閣を倒そうと目論んでいたようです。今ひとつの原因は、日本の経済利益であることは言うまでもありません。日本の航空会社にとって、日台航路はまさにドル箱であり、失い難いものでした。
北京に到着した大平外相と中国側との話し合いの中心は、どのようにして「中日共同声明」に抵触せずに日台間の民間往来を維持するか、でした。大平外相が提出した案は、一、日中空路をナショナル・キャリア(国を代表する航空路線)とし、台湾との空路をローカル・キャリア(地域的航空路線)とする。二、これに伴い、「中華航空会社」については、名称、機体のマーク、日本での使用空港などについて、「二つの中国」の恐れが生じないよう、日本側で執りうる範囲の適切な処置をとる。三、JALは日中空路に就航し、台湾とは、別会社で運営する、などでした。
中国側は大平外相の案にほぼ同意し、その具体案については、周総理が「中華航空会社の後ろに“(台湾)”の文字を入れ、機体上のマークは国旗を代表しないただの商標として使う」という名案をを出して、毛主席の賛同を得たといわれています。大平外相は中国訪問の結果に満足し、準備期間を経て、4月20日、北京において中日両国の間で航空協定が正式に調印されました。案の定、台湾当局は日台航路を断絶すると言って、日本を脅かし、メンツを保とうとしました。大平外相は、日本の親台湾派によって圧力を加えられ、苦しい立場に立たされたことは想像に難くありません。この年の国会では、自民党の一部の右派の議員が一斉に大平外相の攻撃に出、大平外相のやり方は日台航空路線を断絶させるものであり、日本の国益を失わせ、台湾への信義を裏切ったとまで言って難癖をつけましたが、答弁を迫られた大平外相は、毎回、頑強に立ち向かい、間違いであったとか、国益を損ねたとは決して認めませんでした。このような情景が連日テレビで報道され、その屈強な態度に、私も含めて多くの人々が心を打たれました。
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