1950年7月、私たち969名の者が貨物列車に乗せられてソ連から中国に移管された。同年7月18日の午後、今度こそ日本に帰れるかもしれないという期待を抱いた私たちを乗せた列車は黒竜江省の綏芬河の駅に到着した。なぜ今になって中国に引き渡されるのかと納得のいかない思いがした。それから私たちは列車で遼寧省の撫順駅に到着した。撫順は炭鉱の町として有名だ。炭鉱で強制労働させられるのではないかと思った。
私たちは皮肉なことにかつて日本の軍隊が建てた監獄に連れてこられた。その建物の入口に「戦犯管理所」と書かれているのを見て私たちは驚いた。なぜかと言えば、私たちは戦争に参加したが、それは上官の命令に従ったからだと思っていたからだ。それなのに私たちはなぜ戦犯なのだと思った。
しかし、戦犯管理所の職員たちは非常に人道的な態度で対応してくれた。その管理所には暖房設備もあったし、大きな風呂場もあった。散髪屋まであった。食事は白米のご飯だった。監視員は「飯は足りているか」と聞いてくれた。職員の中には自分の肉親や親類や知人、友人が日本軍に殺されたり犯されたり家を焼かれた人もいた。しかし、決してその方々は日本人の戦犯を罵ったり殴ったりはしなかった。病気の戦犯には手厚い看護をしてくれ、高価な薬も与えてくれた。待遇がよすぎると心配して、中国の人道的な政策を信じられず、ここで殺されてしまうのではないかとまで思った。
ある日、管理所の責任者から「あなたがたは中国に侵略してから何をしてきたか。君たちは自分のことばかり考えているが、中国人民の苦しみ、恨み、家族の悲しみを一度でも考えてみたことはあるか。本当の人間に立ち返ってほしい」と言われた。そして、さまざまな学習を行った。
中国の学問は、天皇は神だと信じていた私たちにとって非常に新鮮だった。学習を進めるうちに、あの戦争は本当に「聖戦」だったのだろうか、という疑問が生まれてきた。
ある日、陸軍第39師団の中隊長だった宮崎大尉が戦犯全員の前で話をし始めた。そして「日本から来た初年兵に人を殺す度胸をつけさせるために、中国の農民を捕まえて銃殺させた。そして逃げ遅れた老人や子供を銃剣で突き殺させた。穀物や家畜を奪い、村人の家を焼き払った。今までは罪から逃れようとして事実を隠してきた」と話した。自分の罪状を語るうちに彼は顔をくしゃくしゃにして泣き出した。その声はいつしか怒号に変わり、最後に「死刑に処してくれ」と言ったときには絶叫になっていた。それを聞いていた戦犯たちからいきなり「同感だ」という声があちこちから上がった。
今まで私は自分のやったことは上官の命令でやったことだと主張してきた。しかし、この宮崎の話を聞いてからは、自分たちはなぜ、あんなに残酷なことをしたのだろうと考え始めるようになった。私たちは侵略を命令した人間や犯罪行為を命令した上官にも罪があるが、それを実行した私たち自身にも責任があることを明確に理解するようになった。
私たち戦犯が裁かれる日がやってきた。取り返しのつかない重い罪を犯したのだから、どんな刑が科されてもしかたないと私の心は落ち着いていた。しかし、判決は「不起訴、即時釈放」だった。私はすぐには信じられなかった。帰国できる喜びと中国人民の寛大さへの感謝で涙が流れてきた。管理所に戻ると職員の方が総出で「おめでとう、よかったね」と私たちを祝福し握手を求め、肩を抱いて喜んでくれた。
1956年8月、私は日本に帰国した。軍曹という肩書で20歳のときから16年の歳月が流れ、私は36歳になっていた。
私たちは日本に帰国してから、半世紀以上にわたって証言活動を繰り広げてきた。恥ずべき犯罪、体験を証言するのは、こうした過ちを二度と繰り返してはならないからだ。日本が中国をはじめ、アジアを侵略したことを国として誠意をもって謝罪し、幾代にもわたる友好関係を日本と中国とが結んでいけるように、私は命のある限り努力していく。それが私の贖罪なのだ。ご静聴ありがとうございました。
「北京週報日本語版」 2007年12月10日 |