12月5日、南京大学構内において元陸軍第59師団の軍曹であった坂倉清氏が自らの生々しい体験を語った。
同氏は1920年生まれ。1940年に召集されたあと、戦犯として撫順戦犯管理所に収容され、その中でラストエンペラー・愛新覚羅溥儀氏らとともに戦争を捉えなおす機会を得て1956年8月に釈放された。
帰国後、「中国帰還者連絡会」に参加、日本国内および中国各地をめぐり、自らの戦争体験を語りつづけている。
現在87歳という高齢ながら、3日に南京入りしたあと、4日には南京師範大学で報告会を開き、この日の南京大学での報告会を終えた翌日には帰国、というハードスケジュールの中、前日に転んで怪我をした頭に包帯を巻いて淡々と当時の記憶を語った。その証言の概要は以下の通り。
私は中国人民に対して深い罪を犯した。
私は千葉県の一農家の長男として生まれた。私の家は9人家族の非常に貧しい家だった。子供のころ、世界的な大恐慌があり、そのあおりは日本にもやってきた。特に小作人である私の家は非常に苦しい生活をしていた。私も農作業をしたり、弟や妹の面倒をみたりするために小学校を休まなくてはならないときがあった。勉強したい私にとっては辛い日々だった。
千葉県は軍隊の所在地で兵隊が大勢いたため、私も小さいときから兵隊になろうと思っていた。1940年に徴兵検査を受け甲種合格となり、兵隊になった。
同年12月に日本を出て山東省へ行った。そこではまず銃の打ち方や銃剣術の訓練を受けた。すべて人を殺すための訓練だった。捕虜を銃剣で突いて殺す場面も目撃した。この訓練は自分の手で人を殺させ、早く一人前の兵士とならせるためのものだった。八路軍の兵士と思われる若い兵士が殺されるところも見せられた。そのときはとても気分が悪くなった。しかし、目をそむけると上官ににらまれ出世ができなくなる。
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