井(伊)澤眞伎氏の証言文書の写真。
1971年8月29日の『群星』第1期(沖縄通信社刊)は甲午戦争後の伊澤弥喜太と古賀の無人島開発協力に関する、伊澤弥喜太の長女、伊澤眞伎氏への取材記録を掲載した。伊澤眞伎氏(故人)の記憶によると、甲午戦争時、父・伊澤弥喜太は軍医だったようで、その後医者として那覇へ渡った。甲午戦争終結後間もなく八重山で三井物産の漁船10数隻が遭難。伊澤弥喜太は医者として捜索・救難に同行して出航、無人島に到着した。だが、当時はまだこれらの島嶼が清国のものなのか日本のものなのか知らなかったため、直ちに九州へ戻り、政府に連絡。政府は日本のものだと言った。そこで伊澤弥喜太は古賀辰四郎らと開発申請の提出を決定。伊澤には資金がなく、古賀が出資したため、島嶼の権利は名義上古賀に帰属した。だが古賀は定住も開発もせず、開発事業は伊澤が担った。これらの島嶼を古賀が発見したとは聞いたことがない。
■伊澤弥喜太の長女:釣魚島は中国に返還すべき
伊澤弥喜太の長女、伊澤眞伎氏は1901年2月に黄尾嶼(日本名・久場島)に生まれた。眞伎氏は1972年1月8日に口述で代筆してもらった「尖閣列島についての証言」で、父・伊澤弥喜太が1891年に初めて島に上陸し、開発を行ったことを明かしたうえで、釣魚島は中国に返還すべきだと明確に指摘した。以下、証言の一部を紹介する。
「私は尖閣列島(注:釣魚島及びその付属島嶼)の黄尾島古賀村に生れました。父は井沢弥喜太(注:伊澤弥喜太のはず。同音の字なので誤記か)といい、古賀辰四郎さんの事業主任で、その島の鰹節工場の経営やあほう鳥の羽毛や貝殻の採集などいたしました。今新聞などを見ますと古賀辰四郎さんが、この島の発見者となっていますが、これはとんでもない間違いで、古賀さんが発見したということは絶対にありません。はっきりしている記録からでも、明治24年(1891年)私の父が魚釣島(すなわち釣魚島)、黄尾島に渡航し海産物とあほう鳥を採集しています」
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