1971年の『群星』掲載の、1905年前後に撮影されたと思われる伊澤弥喜太(2列目右から4人目)などの写真。
日本の石垣市は14日、「尖閣諸島開拓の日」記念式典を行った。安倍晋三首相も式辞を寄せ、強硬姿勢を重ねて表明した。日本文部科学省も釣魚島(日本名・尖閣諸島)に関する宣伝を中高教科書に盛り込む方針を堅持している。実は、いわゆる「尖閣諸島開拓の日」は伊藤博文内閣が釣魚島を沖縄県の管轄下に置くことを秘密裏に決定した1895年1月14日に由来し、「開拓の日」と呼ぶよりも「窃取の日」と呼んだ方がいい。1895年までの約10年間、日本政府は秘密裏の調査によって釣魚島が中国の命名した島嶼であることをすでに十分に把握しており、そのため甲午戦争(日清戦争)の勝利が確定的となるのを待って秘密裏に盗み取ったうえ、1884年に古賀が島に上陸して開発したとの謬説を捏造したからだ。本記事は日本政府の誤った宣伝に日本国民と国際社会が騙され続けることのないよう、歴史上の事実と当事者の長女の証言に基づき内幕と真相を明らかにする。(文:劉江永・清華大学現代国際関係研究院副院長。環球時報掲載)
■最初に上陸し海産物採集などを行った日本人――伊澤弥喜太
伊澤弥喜太(1853-1914)は熊本県に生まれ、甲午戦争(日清戦争)前に釣魚島に渡って海産物を採集。甲午戦争後は釣魚島の植民・開発を実際に担ったが、後に事業破産により台湾へ渡り、大正3年(1914年)、61歳の時に台湾花蓮で死んだ。
早くも明治33年(1900年)11月、宮嶋幹之助氏は日本の『地学雑誌』第143巻「黄尾島」で「現今黄尾島に移住し居る、伊澤矢喜太の供述に依れぽ、同人は去明治二十四年(1891年)より魚釣島並びに久場島に琉球漁夫を引つれ渡航し、海産物と島上の信天翁とを採集せり。当時にありて航海は、単に刮舟又は伝馬船によりしに過ぎず。而して島には永く留る事なくして、石垣港に帰来せり。次て明治廿六年(1893年)再び同島に渡航し、帰路颶風に遭い福州に漂着し、辛くも九死の中に一命を助かり師と云う。其後明治廿九年(1896年)に至り古賀辰四郎氏、前記伊澤を雇い入れ、付するに糸満村漁夫十数名を以ってし同島に派遣し……」と記した。1891年の伊澤弥喜太の上陸「開発」行為は、中国の無人島に個人が上陸してひそかに海産物採集などを行ったものであり、国際法上の「先占」には当然あたらない。
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