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人民日報:馬関条約と釣魚島問題を論じる

 

1972年に日本外務省は「尖閣諸島の領有権についての基本的見解」を発表し「尖閣諸島は我が国の領土たる南西諸島の一部を構成している。また、明治28年5月発効の馬関条約(下関条約)第2条に基づき我が国が清国(清朝)より割譲を受けた台湾及び澎湖諸島には含まれていない」と主張した。これはいわゆる日本が釣魚島(日本名・尖閣諸島)の領有権を有しているとの根拠の1つとなった。だが事実は果たして本当にそうなのだろうか?(文:張海鵬・中国社会科学院学部委員、李国強・中国社会科学院中国辺彊史地研究センター研究員)

一、馬関条約及びその第2条に関して

馬関条約第2条第1項、第3項は遼東半島と澎湖諸島の地理的範囲を明確に定義している。ではなぜ「台湾全島及び其の附属諸島嶼」についてのみ記述を曖昧にしたのか?日本側の公開した馬関条約関連の交渉議事録の記述から、日本政府が条約で台湾の附属島嶼の処理を曖昧に処理した魂胆が見えてくる。

1895年6月2日に「台湾受け渡しに関する公文」に署名する前、台湾の附属諸島嶼がどの島嶼を含むのかが双方の討論の焦点となった。当時の日本の水野弁理公使と清政府の李経方全権委員との間の討論の摘要が日本の公文書館に保管されており、濱川今日子著『尖閣諸島の領有をめぐる論点』に見える。会談で李は日本が後日、福建省付近に散在する島嶼も台湾附属島嶼と見なして領有権を主張することを懸念し、台湾所属島嶼に含まれる島嶼の名を目録に挙げるべきではないかと尋ねた。水野は「島嶼名を列挙すれば、脱漏したものや無名の島があった場合の問題を避けがたく、日中いずれにも属さないことになり不都合だ。台湾の附属島嶼はすでに海図や地図などにおいて公認されており、台湾と福建との間には澎湖列島の『横はり』があることから、日本政府が福建省付近の島嶼を台湾所属島嶼と見なすことは決してない」と応答した。日本側の姿勢表明に鑑み、李も逐一名を挙げずに処理することに同意した。

水野の発言は、日本政府が台湾の附属島嶼についてすでに公認の海図や地図があることを認めていたため、台湾受け渡しに関する公文に釣魚島列島を列挙する必要はなかったことを示している。この点から見て、日本政府は事実上釣魚島列島が台湾の附属島嶼であることを認めていたのである。なぜなら、釣魚島列島は公認の海図や地図で早くから中国に属すことが明記されていたからである。また、この対話は馬関条約署名の3カ月前に日本政府が閣議で釣魚島を秘密裏に沖縄県に編入した事実を隠す意図が、会談の日本政府代表である水野にあったことも示している。

1885年から1895年までの10年間、沖縄県は「国標」を建立することで釣魚島を管轄範囲に組み入れようと企て続けた。だが日本政府は釣魚島が「清国に属している」ことに鑑み、「国標」を建立すれば清国の警戒と争いを引き起こすことを恐れ、ずっと許可しなかった。甲午戦争(日清戦争)の勝利が目前となった時、日本政府は釣魚島列島を奪い取る時機が到来したと感じ、1895年1月14日の閣議で、沖縄県知事の上申に照らして島を沖縄県の所轄とし、標杭の建設を認める決定を秘密裏に行った。だが実際には沖縄県が釣魚島に標杭を直ちに建設することはなかった。井上清教授によると、1969年5月5日になってようやく沖縄県石垣市が長方形の石の標杭を建立した。日本の閣議のこの決定は秘密文書であり、57年後の1962年3月に『日本外交文書』第23巻で対外的に公表された。それまで清政府および国際社会は全く経緯を知らなかった。

つまり日本政府は長い間、釣魚島の領有権を公に主張しなかったのである。明治天皇は1896年3月の勅令第13号「沖縄県ノ郡編制ニ関スル件」において、釣魚島を明確に組み入れていない。だがこの勅令は日本側によって釣魚島の領有権を有する根拠の1つと見なされており、明らかに世界の人々を欺くものだ。

日本が釣魚島を「盗み取った」のは決して「平和的方法」によるものではない。近代植民地主義侵略の産物であり、甲午戦争での日本の戦略の一環なのである。中国侵略戦争の勝利を確信したからこそ、日本の内閣は釣魚島を掠め取り、続いて不平等な馬関条約が出現した。そしてまさに馬関条約を通じて、日本はいわゆる条約の形で、釣魚島を「盗み取る」行為の「合法化」を果たしたのである。この歴史過程は明らかで間違いがなく、歴史学者の共通認識である。

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