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周総理と中日国交正常化

        中日友好二十一世紀委員会中国側座長 張香山

二十年前、中日両国が国交正常化を実現したことは、両国人民の根本的利益に合致し、アジア情勢の緩和と世界平和の擁護に寄与する大きな出来事であった。中国側について言えば、これは毛沢東主席の支持のもとに、周恩来総理が直接指導し、計画したものだった。周総理はこのために、多くの心血を傾注した。

日本政局の変化を注視

一九七一年十月、国連総会が台湾当局を追放し、中華人民共和国の議席を回復したことは、世界の潮流の変化を示すものであった。同時に、もろもろの事象は、佐藤政権が翌年には下野するであろうことを示していた。そのときから、周総理は、自民党の次の内閣を誰が組閣するかをこまかに注視し、関係部門に研究するよう要求すると同時に、日本の友人から直接状況をきいた。その年十二月、周恩来が日中覚書貿易交渉代表団と会見したとき、古井喜実、田川誠一の両氏は、日本の次期内閣首班は、一般の人が予測しているように、必ずしも福田赳夫氏ではなく、別の人物がなる可能性があると語り、さらに、日中国交正常はこれ以上引き延ばせないだろうと語った。それらの言葉は、周恩来の大きな関心を引いた。翌年三月、周恩来は藤山愛一郎氏と会見し、四月には三木武夫氏と会見し、自民党の派閥状況および中日国交正常化に対する両氏の態度見解をこまかに聞いた。周恩来は五月に公明党代表団の二宮文造氏と会見するまでの、半年にわたった調査研究をもとに、誰が次の日本の首相になるかについて確信が持てた。そのため、周恩来は二宮文造氏に、「もし田中氏が首相になり、中日問題を解決する用意があり、自ら訪中して話し合うことを望むなら、それは吉田、岸から佐藤までの体制を打破するものだ。このような勇気ある人がくるのを、われわれがどうして拒否できよう。そんなことをしたら道理に合わない。あなたがた公明党の委員長、副委員長が田中氏に会われたら、私のこの意見を伝えてもいい」と言明した。この談話は、周恩来が佐藤氏の下野前に、日本政局の成り行きをはっきり見通し、しかも、機を逸することなく、田中氏に一つのシグナルを送り、田中氏が首相に就任することを中国は歓迎し、日中国交回復のため、氏に一肌脱いでもらいたいと希望していることを伝えたものだった。

張香山氏

新しい動きをつかむ

六月末から、周恩来はほとんど毎晩、人民大会堂に外交部および日本問題担当の同志を集めて会議を開き、日本政局の動きを検討した。総裁に選出された田中氏は七月五日に発表した記者団への談話でも七日の初閣議で行った談話でも、「中華人民共和国との国交正常化の実現を急ぐ」ことを明確にした。これは疑いもなく一つの重要なシグナルであった。これに対し、周恩来は九日、「田中内閣が成立し、外交面で中日国交正常化の実現に努力すると声明したが、これは歓迎すべきことである」と明確に表明した。周恩来のすばやい反応は、日本で大きな反響を呼んだ。

七月十一日中国歌舞団が日本で公演することになった。団長は孫平化氏だった。総理は孫平化氏と、中国覚書駐東京事務所代表の蕭向前氏に対し、日本滞在中の機会を利用して、なんとかして日本の首相の国交正常化のための訪中を促進し、日本の指導者と会ったときは、中国指導者の意向を伝えるよう指示し、それと同時に、孫平化氏には交渉代表ではなく、民間の連絡係として活動するようきびしく要求した。中日国交回復に関する大事は、双方の首脳会談でしか実現できないものだったからである。八月十一日、大平氏は孫平化氏と会見し、訪中したいという田中氏の意向を伝えた。孫平化氏の報告を受け取った総理は、同日夜、人民大会堂に関係者を集めてこの問題を検討するとともに、姫鵬飛外交部長に権限を授けて、周総理が田中氏の訪中を歓迎し、招請するという声明を発表させることを決めた。これは機を逸することなく、タイミングよく行われた二度目の公式反応であった。十三日、日本の官房長官は「これは非常にすばらしいことだ」と表明した。十五日、田中氏は孫平化、蕭向前の両氏に会ったとき、総理の招請に感謝した。こうして、田中氏の訪中が確定した。

世論を重視、復交ムードを盛り上げる

周恩来は世論の動向を非常に重視し、メディアをつかって、世論づくりをし、ムードを盛りあげることを提起した。それと同時に、日本に現れた国交正常化実現に不利なすべての動きに十分注意し、適時にその真偽を見分け、それにまどわされないようわれわれに注意を促がした。当時、日本側は国交正常化を推進するため、自民党内に日中国交正常化協議会を設け、田中氏が日中国交正常化の基本構想を提出した。田中氏が訪中を決めたことなど、すべてすぐに中国の新聞に報道された。そのほか、歌舞団の訪日および孫平化氏が田中訪中を促進するために活動したことも十分に報道された。これらすべてのニュースは、周恩来自ら審査したものだった。他方、日本の通信社が報じる日中国交正常化に不利な一部のニュースに対し、周恩来は絶対ないがしろにせず、いつもみなに意見を述べさせ、しかも訪中してきた日本の友人に、これらのニュースの信ぴょう性を質した。九月十四日、小坂善太郎氏の率いる自民党代表団が訪中し、廖承志を団長とする代表団が一行と会談した。当時小坂氏は、日中国交正常化後、日本が台湾との外交関係を保持しないことを明らかにした。周恩来はこの訪中団と二回会見した。十九日、日本側が答礼宴を終わって翌日の帰国の準備をしているとき、周恩来はまたしても彼らと緊急に会見した。それは、周総理が外電によって、台湾に派遣された自民党副総裁の椎名氏が台湾の国大代表と懇談したさい、日本は中華人民共和国との国交樹立後も、外交関係を含む台湾との各種関係を保持し続けることを表明したとのニュースをキャッチしたからであった。これはショッキングなニュースだった。しかし、日本政府は名前をあかさない「官辺筋の談話」だけでそれを否定した。この緊急会見で、周恩来は小坂団長と副団長らに、椎名談話について説明を求めるとともに、中日復交に関する中国の三原則を改めて彼らに明らかにした。これは非常に厳粛な会見であった。小坂団長は、「椎名談話は正常化協議会の公式意見にもとるものであり、まことに遺憾である。これはけっして田中氏や大平氏の意見ではない。総理にはそのことを心配しないでほしい」と述べた。会見の最後に、周恩来はその夜話したことを田中首相に報告するよう希望すると同時に、それぞれが語ったことを自分で毛主席に報告する、それは今後に食い違いの起こらないようにするためであると述べた。会見後、周恩来はさらに中国滞在中の古井喜実氏と会見し、椎名談話に対する古井氏の見解をたずねた。以上に述べたことからも、周恩来がいつも、重大で疑わしい新聞報道に対し、いかに厳粛かつ真剣な態度をとったかを知ることができよう。このような問題について、周恩来はいつもかならずその真相を究明し、ただちに対応策をとって、国交正常化がミスリードされ阻害されることのないようにした。

多くの日本代表団と会見して意見を交換

五月から九月にかけて、周恩来は多くの日本代表団と会見した。その中には、与党自民党のいくつかの派閥の人たちもいれば、野党の公明党、社会党、民社党など人たちもおり、また、総評など大衆団体、日中友好協会など友好団体、三菱など財界、経済界の代表団があった。会見の席で、周恩来は中日国交正常化といった重要で差し迫まった問題にふれた際、いつも異なる話し相手の考え方の実際を考慮しながら、突っ込んだ意見交換を行った。自民党の友人に対しては、主に自民党内の中日友好を主張している各派が結束して一日も速く中日国交を回復させるために努力するよう希望するとともに、これら友人から、自民党内の親台湾派の動きを知り、彼らに国交正常化三原則の中の台湾問題を説明することに重点を置いた。社会党委員長の佐佐木更三氏と会見したとき、佐佐木氏が、田中氏は一大決心をして、自分の手で日中国交正常化を実現しようとしていると語ると、周恩来は、田中氏あるいは外相の訪中を歓迎すると伝えるよう依賴した。一部野党の友人は、二十数年にわたって日中友好活動を進めてきたのに、国交正常化の手柄は自民党にさらわれてしまうと感じ、なんとなく悩んでいた。すると周恩来は、「政権が自民党に握られている以上、国交回復という問題は自民党と話し合わないわけにはいかない。あなたがたが長いこと中日友好に寄与されたことに、われわれは心から感謝する。田中首相さえ野党のみなさんが中日国交回復の地ならしをされたことを認めないわけにはいかない」と述べた。周恩来は、一部の財界有力グループの代表に対しては、国交正常化後経済分野の協力は大きな発展をとげるだろうと指摘し、国交正常化後、中国は財界だけを相手とし、自分たちは苦境に陥るのではと心配している中小企業家に対し、「われわれはそんなことはしない。われわれが古い友人を忘れることはなく、これまでと同じように日本の友好商社のことを配慮する」と述べた。日本バレーボール代表団と会見した際も、周恩来は国交回復というテーマをがっちりとり上げた。前田団長が、「訪中の前夜、田中首相は私たちと会見し、私たちに日中友好のかけ橋になってほしいと語った」と述べると、周恩来はすかさず、「私もそのことは聞いた。あなた方の首相が私に挑戦した以上、私も受けて立たないわけにはいかない。あなた方の首相があなた方と会見したからには、私もあなた方と会見しないわけにはいかない。両国チームの友好往来は、中日国交正常化を促進するかけ橋となった。あなた方に感謝し、あなた方の首相にも感謝したい。あなた方は任務をりっぱに達成したと首相にお伝え下さい」と述べた。周恩来の誠実で、率直な、ずばりそのものの談話は、日本の友人にとって受け入れやすいもので、時には彼らを深く感動させた。

胸に成算あり、共同声明調印にこぎつける

両国の国交正常化には、双方の同意する文書に調印する必要があった。だが断交して三十余年の中日両国には、問題が山積しており、両国首脳の数回の会談だけで合意に達することは困難だった。そのため、あらかじめ初歩的な意見交換を経た草案を用意し、両国首脳が会談したさい、最終的にそれをねり上げ合意に達するようにする必要があった。七月末、公明党委員長の竹入義勝氏が田中首相に託されて、国交正常化の若干の問題、とりわけ日本側が難問と感じ、中国側の事前の配慮を希望する問題について相談するため、中国を訪れた。二十七日から二十九日まで、周恩来はつづけて三晩、十数時間にわたって竹入氏と会談した。三日目の夜、周恩来は、両国政府の共同声明に関する中国政府の八カ条の内容と三項目の口頭の暗黙了解について、一字一句、竹入氏に説明した。この八カ条と三項目は、周恩来がまとめ、毛主席の同意を経たものであった。それには、中日国交回復の三原則、かつて日本の一部政治家と話し合ったことのある戦争状態の終結、賠償放棄などのいくつかの問題、日本側の困難への配慮、中日友好、日米関係に影響するものでないこと、「日台条約」は非合法かつ無効で放棄すべきであることを明記せず、他の方式でこの条約を廃棄することなどが含まれていた。周恩来は共同声明の作成について、相違点にはふれずに共通点だけを盛り込み、簡明なものにすることを提唱した。周恩来はまた竹入氏に対し、田中首相と大平外相が追加したり削ったりする必要があると思われるどんな問題でも、十分に意見を交換していいと語った。その時、竹入氏ら三人の友人は、周恩来の口述した要点を一字一字メモし、帰国後田中、大平の両氏に手渡した。こうして、田中首相は中国の方針と考え方を理解し、確信がもて、そこで訪中を決意した。一月後の九月九日、大平外相の親友、古井喜実氏が日本側草案の要点を携えて訪中してきた。周恩来と会ったとき、古井氏は若干の説明をし、声明には前文をつける必要があるがまだ案文はできていないと語った。その後、周恩来主宰のもとで、日本側の草案に対するいくつかの意見が提起され、蕭向前氏に訓電して日本側に伝えさせた。同時に、中国側の声明草案が再び起草された。

九月二十五日、田中首相の一行が北京に到着した。午後、両国首脳と高官の会見が行われた後しばらく休憩し、すぐ首脳会談に入った。周恩来の提案で、双方は、首脳会談のほか、双方の外相が数人を伴って共同声明について話し合うことで合意した。共同声明は三日半で合意に達した。共同声明を討議する過程で、中国側は周恩来が終始主導的役割を果たした。例えば、二十六日午前に開かれた外相会談では、日本側の高島条約局長がしゃくし定規に法律の条文にこだわり、日台条約で蔣介石がすでに賠償要求を放棄したのだから、共同声明の中で再びこの問題にふれる必要はないとまで言い出した。周恩来はこの話を聞いてすぐ、当日午後の首脳会談で、これを厳粛な態度で批判した。三回にわたった外相会議と起草グループ会議でとめどなく論争された問題について、われわれはすぐ周恩来に報告し、具体的な指示を仰いだ、一部の字句の修正、例えば「不正常な状態に終止符を打つ」を「戦争状態を終結させる」に代えることは、周恩来が自ら決めた。二十七日夜から翌早朝三時にかけての第三回外相会議で、ついに共同声明について合意に達した。こうして二十八日に開かれた最終首脳会談で、周恩来は田中首相に対し、「われわれは国交を回復するのに、なによりもまず信義を重んじ、言った以上必ずまもり、おこなう以上必ず断固としてやる」と言い、言ったあとそれを紙に書いた。これに対し田中首相は、「信は万事の本」と答え、同じようにそれを紙に書いた。二十九日午前、共同声明が調印され、それによって、両国関係の歴史に新たな一章が切り開かれた。後日、私は大平外相の伝記を読み、共同声明について話し合っている過程で大平外相があれこれ心配し、もし合意に達することができなかったらどうすると、田中首相に不安をもらしたことをはじめて知った。しかし、われわれから言えば、二つの問題で論争がつづいたものの、田中首相が訪中して会談しさえすれば、問題は必ず解決できると周恩来が何度も言っていたのだから、そのような心配は決してなかった。だから、当時われわれはみな自信満々で、たとえもっと大きな困難にぶつかっても、周恩来がきちんとけりをつけ、共同声明は必ず合意に達するものと信じていた。事実ははたしてそのとおりになった。

周恩来が中日両国の間に新しい橋をかけるために尽くした貢献は、とこしえに歴史に書き残されるであろう。

「北京週報日本語版」1992年No.39

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