二
アメリカ政府が一九七一年七月十五日に発表した声明は日本当局を驚かせた。米大統領安全保障問題担当補佐官キッシンジャーがすでにひそかに北京を訪れ、ニクソン大統領が一九七二年に中国を訪問するというのである。当時、日本では、これを「ニクソン·ショック」と呼んだ。こうして、扉が大きく開かれ、日本の各界の知名人がぞくぞくと訪中し、世論界も日中国交回復の早期実現をさけんだ。「終バスに乗り遅れるな」という言葉さえはやった。友好諸団体、野党、労働組合、農業協会、中小資本家がいっそう活発に動き出し、関西、関東の二大財団も代表団を北京におくった。超党派の日中国交回復促進議員連盟が元外相藤山愛一郎氏に率いられて、北京を訪れ、十月二日に中日友好協会とのあいだで中日復交四原則の共同声明を発表し、台湾の蔣介石政権との条約を廃棄し、断交し、中国はただ一つであり、台湾は中華人民共和国領土の不可分の一部であることを公に表明した。野党とちがって与党の藤山愛一郎らがこの行動に出たのは北京で反旗をひるがえしたのと等しかった。はたして当時の自民党は藤山氏に党紀違反として役職停止処分をおこなった。しかし、藤山氏はたじろぐことなく、自分の立場を堅持し、自民党内の有志や他の政党の議員とともに努力をつづけた。
一九七一年十月、中国の国連における合法議席が回復された。一九七二年二月、ニクソン大統領が訪中し、「上海共同コミュニケ」を発表した。西側諸国では、これを「頭越し外交」と呼んだ。戦略的転換面でアメリカが「頭越し」したのだから、日本がその先を越えて、中国との国交正常化を実現してはならないという理由はない。日本の世論界では、日中国交回復のための世論づくりが大々的に展開された。自民党の要人も藤山氏に「栄誉を一人占めにされる」のに甘んじるわけにはいかなくなった。慎重派の三木武夫氏が有名な学者大来佐武郎らを含めたブレーンを率いて、四月中旬に北京を訪れ、周総理と二回会談をおこない、次のようなことを確認した―法理上中日間の戦争状態がなお終結していないことを認め、このような戦争状態を終結させるために、新中国と国交正常化の取決めを結ばなければならず、その結果として当然台湾との関係を断絶する。長年アメリカに追従して中国敵視をとってきた佐藤内閣は維持できなくなり、佐藤首相は退陣を表明した。次期総裁をめぐって、自民党は二つの派に割れた。田中角栄派は中国との国交回復の主張を明確にうち出し、福田赳夫派と自民党総裁のポストを争った。両派の勢力は伯仲していたが、全般的情勢からみて、中国との復交を主張する側に有利だった。日本の友人のたびかさなるすすめもあって、中国は七月初めに、長いあいだ空いていた中日備忘録貿易弁事処駐東京連絡処の首席代表を派遣し、七月中旬には上海バレエ団が東京はじめ各地で「白毛女」を公演した。七月初め、東京の政界、世論界は自民党総裁の選挙と日中国交回復の早期実現をめぐって、めまぐるしい動きをみせた。三木武夫氏の音頭で、七月二日、自民党内に田中、大平、三木三派連合が実現し、中曽根派もこれに同調し、田中派が優勢を占め、七月七日、田中内閣が成立した。田中首相は日中国交正常化に努力する旨を表明した。九月、周総理はこの努力を歓迎すると表明した。二十二日、大平外相は孫平化(バレエ団団長)、肖向前(備忘録貿易首席代表)と会見し、中国との国交回復の決意を表明し、双方の考え方に大きな相違がないと語った。こうして、国交正常化への具体的準備が大々的にすすめられはじめた。田中首相は大きな決意をかため、交渉の全権を大平外相に託すと同時に、党内、政府内でさまざまな障害を排除し、また長年中日関係正常化に努めてきた野党の首脳や自民党内の有識者に北京で下打ち合わせをするよう依頼した。一連の準備活動をふまえて、八月十一日、大平外相は孫平化、肖向前とふたたび会見し、田中首相の訪中が決定したことを伝えた。翌日、中国の姫鵬飛外交部長は、田中首相が中国を訪問して、中日国交正常化問題について交渉することを歓迎するという周恩来総理の招請を発表した。八月十五日、田中首相と二階堂官房長官は孫平化、肖向前と会見し、周恩来総理の招請を受けいれ、九月下旬に政府代表団を率いて北京を訪問すると伝えた。ここに至り、準備はとどこおりなく終わった。田中内閣が成立して三十八日目のことである。九月二十五日、日本政府代表団は北京に到着し、四日間の張りつめた話合いを経て、二十九日、中日両国政府は中日共同声明に調印し、国交正常化が実現した。田中首相が復交を決意した日から八十二日間しかたっていなかった。この偉大な成果によって、中日関係史の新しいページが開かれた。
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