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中日関係正常化の前後

中日国交正常化までの二十年間を回顧してみるのは意義のあることだと思う。

一九五二年五月、帆足計、高良とみ、宮腰喜助の「三勇士」は、日本政府の出した新中国訪問禁令を最初につき破って、北京入りした。新中国成立後、日本の多くの友好人士が日本人民に中国を正しく知せようと活動して、迫害をうけた。小沢正元、赤津益造の両氏は『人民日報』、『世界知識』配布事件で逮捕された。一九五一年九月、アメリカと日本は、サンフランシスコで対日単独講和条約に調印し、一九五二年四月には日本政府は台湾に逃げこんだ蔣介石集団といわゆる「日台条約」を結んだ。これには、中国人民はもとより日本の良識ある正義感にあふれる人びとがこのうえない憤激を示し、「日米安保条約」と「日台条約」に反対する運動を幅広くまきおこした。帆足計ら三氏はこのようなきびしい情勢のもとに新中国を公然と訪れ、北京で最初の中日民間貿易協定に調印し、さらにアジア·太平洋地域平和会議準備会議にも参加した。三氏は日本に帰国すると、政府から「旅券法」違反で罰せられたが、日本各地の広範な大衆からは熱烈な歓迎をうけた。中日民間交流は曲折にあいながらも、しだいに盛んになり、民間貿易も発展しだした。だが、岸内閣が登場すると、中国敵視政策の推進にいっそう輪をかけたため、中日民間交流と民間貿易は大きな挫折をこうむった。一九六〇年前後、日本政府の政策転換を求める大衆運動の高まりが日本全国におこった。中日民間交流を新しい軌道に乗せようと願う日本自民党内の一部憂国の長老が中日間を奔走しはじめた。元首相の石橋湛山氏は、中国の建国十周年の前に北京を訪れ、周恩来総理と共同コミュニケを発表し、「政経不可分」の原則を表明した。つづいて、元大臣の松村謙三、高碕達之助の両氏があいついで訪中し、周恩来総理と深くつっこんだ話合いをすすめた。一九六二年に局面が打開され、池田内閣の時期に、廖承志氏と高碕達之助氏のあいだで貿易覚書が調印された。この覚書は、五年間の長期総合貿易を発展させることをうたい、さらに相互に常設機構を設立することを決めた。こうしてLT貿易が生まれた。二年後には、東京と北京に相互の常設機構が設置された。これは実際には半国交状態と言えた。この局面をつくるために、広範な日本人民、各界人士が大きな努力をはらい、また各時期の超党派の議員連盟、各政党、団体が大きな働きをした。当時、池田内閣の要人大平正芳氏は松村謙三氏、高碕達之助氏を支持し、通産省の官員も多くの仕事をした。国交未回復という情況のもとで、倉敷レーヨンは中国に延べ払い方式でビニロン·プラントを提供した。中日貿易は友好貿易と覚書貿易の二本足で歩み、大きな進展をみせた。その後、あれこれの問題が生じ、高碕達之助、松村謙三の両氏もあいついで他界されたが、中日貿易は双方の努力によって前進しつづけた。一九七二年に国交正常化が実現するまでの二十年間は、中日関係においてきわめて重要な時期であった。この二十年間に、われわれは毛主席、周総理の指示にもとづき、確固たる原則、高度の信念、辛抱強い活動、積み上げ方式によって、中日関係正常化をめざして日本各界の友人とともに努力し、さまざまな障害をのりこえ、その条件を着実につくりあげた。一九七二年の中日国交正常化の実現はまさに「うりは熟せば自然に落ち、水が来れば溝ができる」という言葉の通りであった。

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