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中国学者 「本当」の孫文氏をどう評価すべきか

 

香山県翠亨村は広州、香港、マカオで構成される珠江デルタ地域に位置する。淡水と海水の合流は、豊富な作物だけでなく、開放的な文化・伝統も生み出した。ここは孫文氏が12年間の歳月を過ごした場所だ。

翠亨村にある孫文旧居記念館は近年、無料で開放されている。辛亥革命百周年を間近に控えたここ2、3年、観光客数は年々増えている。一昨年は130万人、昨年は155万人に上り、今年は180万人に達する見込みだ。

旧居の本館は「華洋折衷」の二階建ての赤い建物で、1892年に孫家の長男である孫眉氏が出資し、孫文氏自らがデザインしたものである。一階の応接間には酸枝木で作られた家具が置かれており、典型的な中国スタイルだ。門の両側には、孫文氏が自ら書いた対聯「一椽得所、五桂安居」が掛けられている。

しかし、孫文氏が生まれた1866年頃、孫氏の家は生活に困っていた。父親は他人の土地を賃借りして農業を行い、一家の生計をかろうじて維持していた。孫文氏はかつて妻の宋慶齢氏にこう言ったことがある。「子供時代は山で薪を拾い、畑で雑草を取り、牛飼いもしていた」と。これらの経験は、彼に「中国の農民の生活が貧しいままではいけない。中国の子供に食事や衣服に困らない生活をさせるべき」と思わせた。

今の翠享村は、孫文氏をテーマとする歴史文化村になり、伝統的な民家や博物館のほか、農業展示区もある。

「孫文氏の足跡をたどる」という活動に参加した台湾の大学生の江佩センさんは、畑や池の近くを散策した。彼女は、「私たちは毎日教室の中で孫文氏の写真を見ている。今日、彼が成長した環境の中に身を置いて初めて、彼がどうして広い視野を持ち、伝統を残せたかを知ることができた」と述べた。

孫文氏は12歳の時、兄を頼ってハワイのホノルルに渡り、その後に香港で勉強し、マカオで医者になった。こうして、翠享村から外の世界に出た。1984年、孫文氏は李鴻章氏に意見を出したが、返事はもらえなかった。その後すぐに興中会を結成し、「中華復興」のスローガンを打ち出した。

孫文氏らは1985年、広州で反清武装蜂起を企てた。鎮圧され失敗に終わったが、国内で大きな反響を呼び、「孫文」という名前が世を揺る動かした。その後、孫文氏は16年間に及ぶ海外逃亡生活を続けた。1896年にロンドンに入った孫文氏は、清国の公使館に連れ込まれ、監禁された。当時の香港紙「The China Mail」は、「彼は平凡な人間ではない。彼の落ち着いた外見の下には、いつか中国に大きな影響を与える人格が潜んでいる」と孫文氏を評価した。

一人の庶民から歴史に名を残す人物になった孫文氏をどう評価すべきか。中山大学歴史学部のキュウ捷さんは以下の観点を示した。革命時代、孫文氏は民主革命の先駆者だった。建設の時代になった1970年代後、孫文氏は近代化の先駆者になった。さらにこのようにも言われている。中華民族は歴史上3回の飛躍を遂げた。1回目は孫文氏がリードした辛亥革命、2回目は中華人民共和国の成立、3回目は改革開放である。

広東省社会科学院孫文研究所の王傑所長は、孫文氏のイメージは徐々に真実に近づいていったと話す。孫文氏は庶民の出身で、草の根の利益を代表するが、偉大な人物でもある。彼は国を自らの命のように愛し、時代と共に進み、決して屈しない精神と意志を持ち、中華を振興させる理想を抱いていた。最も重要なのは、彼の終始一貫した精神であり、失敗を繰り返しても努力し続ける意志である。

「いつの時代でも、どんな政治的立場に立っていても、孫文氏というだけで、全民族が彼から示唆や激励をもらえる」とキュウ捷氏は語った。

「中国網日本語版(チャイナネット)」2011年9月16日

 

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