一九二四年に、孫中山は広州で三民主義について講演をしました。講演の場所は広東大学でした。いつも十数人の幹部に伴われて、大元帥府を出発し、橋を渡って珠江の向う岸に着き、そこから三台の自動車に分乗して行くのです。四、五華里の道を往復するのに十五元も自動車賃がかかると知って、かれはそれいらい、車に乗らないで幹部たちといっしょに歩いてゆくことにしました。
孫中山が一生涯学問にはげんだ精神については、かれを知っている人で、称賛し、敬服しないものは一人もいません。一九一三年から一九一六年まで、かれは東京にいましたが、同盟会のふるい会員である仇鰲は、つぎのように回顧していました。「かれの住まいには、りっぱな書物が部屋ぢゅうに積んであり、十三経、二十四史、内外の政治·経済書、それにいろいろな地図などそろうべきものが全部そろっていた。かれは本を手離したことがなく、たえず読書に没頭し、全神経を書物に投入して、かならず書物の精神を汲みとるようにしていた」[注释8]。
わたしも、かれが少しでもひまがあれば、書斎のゆかに大きな地図をひろげ、濃い鉛筆と消しゴムをもって、鉄道や河川、港湾などを書きこんでいたのをおぼえています。かれはイギリスで出版された航運年鑑を購読していたので、船のトン数や喫水などのようなことをたくさん知っていました。こんなことがありました。巡洋艦に乗って海寧を視察したとき、かれは航路の水深が浅いから船を外海へまわすようにと、一等航海士に注意しました。ところが、この一等航海士は自分の方が玄人(くろうと)なのだと思い上がっていたものですから、とうとう船を浅瀬に座礁させてしまいました。
最後に、わたしは、孫中山が早くからアジア諸国の革命問題は統一したものであると、はっきり見ていたことを、フィリピンの作家マリアノ·パンサイの言葉をかりて説明したいと思います。パンサイは、一八九九年から一九〇〇年のあいだに日本で孫中山と知りあいました。当時、フィリピンはスペイン植民地主義支配の束縛からのがれたばかりで、略奪を本性とするアメリカ帝国主義に反抗するため、はげしい武装闘争をくりひろげていました。パンサイはつぎのように書いています。「孫中山はフィリピンの時局をよく知っており、最大の関心をもって、たえずその発展を注視していた。かれはわが国のもっとも偉大な人物であるリサール、ドル·ピラールらの事跡をきわめて大きな熱情をもって研究していた。……孫中山の見方によれば、極東の各国の問題はこのように緊密にむすびついているので、それぞれの国の問題を個別に知るには、これらの国を一つの統一体として全面的な探究をくわえなければならない。……したがって、孫中山は『東方青年協会』のもっとも熱心な賛助者の一人であった。この協会は朝鮮、中国、日本、インド、シャム、フィリピンの留学生によって、東京で組織されたものであった。……孫中山は極東にかんするすべての問題に真の関心をよせていた。かれはこれらの問題を研究すると同時に、関係方面を援助して、その解決の方法をさがしだした」。パンサイはさらに、一八九九年に、孫中山と反帝武装闘争の経費と武器の問題について、手紙で意見をかわしたことをのべていました。
このような接触はずっとつづいていました。一九一五年とその後の一時期、東京のわたしたちの住まいに、アジアと世界各地の革命家たちがよく訪れたことを、わたしはおぼえています。
つぎに、わたしは孫中山の生いたちとその生いたちがかれの生活にあたえた影響についてお話したいと思います。
孫中山は貧農の家庭に生まれ、ときには食べるものさえなく、サツマ芋で飢えをしのいだこともありました。幼年の頃、かれは、よく夜になると地元の講談師が語る太平天国やその他の農民蜂起の物語を聞いて、夢中になりました。かれの家庭の出身、抑圧された人民と一緒の生活、そしてかれの聞いた、抑圧者からのがれようとする人民の闘争の物語は、かれの思想に消すことのできない印象を残しました。その後の発展が証明しているように、これら幼い頃の生いたちは、かれが一生革命に身を投ずる決意をするうえで決定的な影響をあたえました。
かれは国内では学校にあがることができませんでした。かれの兄の一人がハワイで農業をやっていたので、かれは国外へ出てやっと勉学の機会を得たのです。かれは長いあいだ異国に身をおいて祖国と離れていましたが、かれの思想感情はひとときも祖国と離れたことがありませんでした。ホノルルを離れて帰国するときのかれは、思想的にひじょうに進歩していて、中国の唯一の活路は清朝の帝制をくつがえすことであると考えていました。革命思想をひろめる基礎として政治綱領を制定したとき、かれは、「神聖の権利は恒久的なものではない!」という最初のスローガンをうちだしました。
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