わたしはまず孫中山の性格について話したいと思います。
孫中山は、遠大な識見と深い洞察力をもつ人物でした。そのため、かれの一生は、ねばり強い革命家としての一生でした。かれははじめから封建王朝を信じておらず、革命の発展にともなって、人民にたいするますます大きな確信をいだくようになりました。官界の腐敗を目のあたりにしたかれは、支配者が人民にたいしてはいばりちらすが、帝国主義にたいしてはぺこぺことへつらうありさまを見て、清朝をくつがえす決意をかためたのでした。孫中山と鮮明な対照をなしたものは、かれと同時代のいく人かの人物、たとえば康有為、梁啓超、厳復などです。かれらは、君主政体のさまざまな幣害をよく知っていながら、人民を信頼せず、思いきって革命をすすめる勇気、共和政体をうちたてるだけの勇気がありませんでした。かれらか主張していたのは立憲君主制度です。康有為は、のちに、清帝の復辟を擁護する小さな集団にまでも参加しました。
いまから六十年あまり前の一九〇五年七月、孫中山は東京の華僑と留学生にたいして演説をおこなったとき、立憲君主制度の綱領を反ばくしています。かれはこういいました。「しかも世界の立憲というものは、これまたかならず血を流して求められるもので、それでこそ真の立憲といえるのである。おなじく血を流すのであれば、なぜひと思いに共和制を求めず、不完全な立憲を求めるのか」[注释1]。孫中山は、この主張を公表するだけの確信と勇気をもっていました。それは、中国人民が比較的みじかい期間のうちに、日本を追いこし、ひいては西側の資本主義国をも追いこすことができるとかたく信じていたからです。ところが、梁啓超のような改良主義者となると、中国人民はただ西側を模倣し、それに追随するしかなく、西側を追いこす能力はない、と強弁していました。西側の諸国の前で、梁啓超とすべての改良主義者はまったく意気地なしだったのです。
当時の保守派と改良派は、孫中山を「ホラ吹きの孫」とあざけりました。これは、かれらこそ目先がきかず、勇気と確信に欠け、永遠に進歩を求める人民への同情心に欠けていたことを物語るものでしかありません。わたしたちも知っているように、理想と遠い見通しは革命をやるうえでの必要な前提です。革命の理論がなければ、革命はありえません。
革命家たるもの、ひたすら人民の利益のために奮闘するものは、つねに疲れを知らぬものであり、未来に光明を見てとるものであります。レーニンは早くも一九一三年、孫中山と文通をはじめる前に(これらの書簡は、いまもレニングラードに住んでいるマルリン同志から送られてきたものです)、革命精神と革命の前途から、「立ちおくれたヨーロッパと進んだアジア」[注释2]ということに言及しています。孫中山にとって、レーニンはひじょうに大きなはげましでした。レーニンは、当時すすめられつつあった中国革命の勝利にたいしても、確信にみちあふれていたのです。
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