辛亥革命の目標と結果
歴史学者は一九一一年十月の武昌蜂起、一九一二年一月の中華民国南京臨時政府成立、二月の清朝皇帝の退位を辛亥革命のしるしとしている。しかし、実際には、辛亥革命には曲折した、長い過程がある。
一八九四年十一月、孫文はホノルルで近代中国の最初のブルジョア的反清革命団体である興中会を結成し、翌年二月、香港に興中会本部を設けた。興中会の誓いの言葉は「蒙古のえびすどもを追い払って中国を復興し、合衆政府を創設する」ことである。この言葉には、この団体がアメリカを手本として、ブルジョア民族·民主革命を進めようとする方向がはっきりと表れている。一九〇五年八月、孫文、黄興らは東京の中国人留学生のなかで近代中国の最初のブルジョア政党―中国同盟会を公式に結成したが、そのとき、上述の誓いの言葉を「蒙古のえびすどもを追い払って中華を復興し、民国を樹立し、土地所有権を平均化する」と発展させた。翌年、孫文は同盟会の機関紙『民報』で、この十六華字の誓いの言葉に対し権威ある解釈を行い、民族主義、民権主義、民生主義という有名な主張を打ち出した。清朝の支配を打倒するのは民族主義であり、民主共和国の樹立は民権主義で、土地所有権を平均化して資本主義経済を発展させることは民生主義である。孫文がその後何回となく語ったように、その三民主義はりンカーン大統領の「人民の、人民による、人民のための政治」という言葉と同じ意味である。
当時の中国人はなぜ辛亥革命を起こしたのか。この問題をはっきりさせようとすれば、十九世紀中期以来の中国の国情をはっきりさせなければならない。一八四〇年にイギリスが中国侵略のアヘン戦争を起こしてから、中国は独立した封建国家から主権がきわめて大きく制限された半植民地国家になった。一八五六年~一八六〇年に英仏連合軍が中国を侵略し、一八八四年~一八八五年に中仏戦争が起きると、清朝政府の腐敗ぶりはさらに暴露された。東方の小国である日本までが一八九四年~一八九五年に中国侵略戦争を起こした。どの戦争も終わったときに、東と西の資本主義国―帝国主義国がいずれも中国から大きな権益をかすめとり、半植民地半封建社会の道をたどる中国の国勢は日一日と悪化した。十九世紀末には、わが国のような悠久な歴史と伝統をもつ文明国が清朝封建専制政権の腐敗支配のもとに、ぼろぼろになり、帝国主義諸国に分割される危険に直面していた。最も早く中国を侵略したイギリスは、強引に香港、九竜を分割、占領したほか、また香港新界と威海衛を租借し、長江流域を勢力圏と公言した。ロシアはわが国の東北、西北地区の百数十万平方キロの領上を併呑して、強引に旅大を租借し、長城(万里の長城)以北を勢力圏と公言した。フランスは広州湾を強引に租借し、広東、広西、雲南を勢力圏と見なした。ドイツは膠州湾(青島はそのうちの定住点の一つにすぎない)を租借し、山東を勢力圏と見なした。日本は甲午戦争(日清戦争)以降わが国の台湾省を独占するとともに、福建省を勢力圏と公言した。早くから中国の中央政府の管轄下に入っていた広大なチベット地区も、このころイギリス、ロシアが野心をもって争奪する対象になった。帝国主義諸国はまた中国に外国との通商都市を開き、大量の資金を注ぎ込んで工場をつくり、中国の経済の命脈を支配して行った。一九〇〇年八月には、中国の北部で帝国主義に反対する農民蜂起が起きたため、帝国主義国八ヵ国が大使館の安全の保護を口実にして、八ヵ国連合軍を結成し、十万もの軍隊がおおっぴらに中国にやってきて、中国人民の反対を鎮圧した。八ヵ国連合軍は天津、北京および華北の多くの都市、町を占領し、殺人、放火、略奪のかぎりを尽くした。一九〇一年九月、十一ヵ国が清朝政府を強迫して「辛丑条約」を締結し、銀九億八千万テールの賠償金を取り立てた。これは利息を除くと四億五千万テールで、中国人一人当たり一テールを象徴し、中国人全体への懲罰を示そうとしたものであった。また中国人民が帝国主義反対の団体に参加するのを永久に禁止すると称するとともに、北京から山海関までの十余ヵ所に八ヵ国連合軍が駐屯することになった。これは外国の軍隊が中国に駐屯する最初の悪例となった。外国の軍隊が保護する東交民巷の大使館区は中国政府の寝台の傍にある国の中の国となった。
中国共産党の援助を受けて孫文は広州に黄埔軍官学校を創設した。写真は開校式における孫文と夫人宋慶齢
まさにこうした歴史的背景のもとに、中国の先進分子は奮起して救国救民の道を探求せざるを得なかったのである。十九世紀の五〇年代から六〇年代にかけて、中国南部の農民は洪秀全の指導下に太平天国革命を起こし、この問題を解決しようとした。一八九八年、中国の上層知識分子の一部はこのために「戊戌変法」運動を起こした。一九〇〇年、中国北部の農民も「排外」の激しい手段を通してこの問題を解決しようとした。しかし、これらはいずれも失敗してしまった。孫文を代表とする革命党人は困難にみちた戦いを展開した。かれらは革命的宣伝を広く進めたほか、何回となく武装蜂起を起こした。孫文が自ら指導した蜂起だけでも十回以上を数える。大衆を徹底的に動員しなかったために、多くの蜂起が相次いで失敗したが、清朝の反動的な支配に打撃を与え、革命の影響を拡大し、ついに武昌蜂起で勝利をかちとったのである。
しかし、中華民国成立の初期、孫文らは革命の徹底的勝利をめざす上で持つ革命政権の重要な意義を認識してはおらず、清朝の打倒が革命の終結であると思っていた。そのため政権を昨日まで清朝政府の内閣総理大臣であった袁世凱に簡単に譲ってしまったのである。孫文が訳がわからなくなったのは、かれが何回となくアメリカ、フランスをモデルにして民主共和制度を樹立し、新政府を結成し、資本主義を発展させると言明したのに、中華民国臨時政府が成立したときには、アメリカ、フランスなど資本主義諸国の支持を得られず、袁世凱が革命の果実をかすめとると、逆にこれらの国が支持し、同情したことである。なぜ西側の先生方は中国の学生が東方の古い大国で実践しようとするのを支持しなかったのか。実は西側の資本主義大国は中国で資本主義が発展するのを望みはしなかったのだ。かれらは中国が立ち遅れた制度を残せばさらに有利だと信じていたのである。孫文はかれが中華民国臨時大総統の職務から離れ、北洋軍閥政府と戦うなかで挫折した後で、この点がよくわかるようになった。
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