王衝(中国社会科学院日本政治センター特約研究員)
9月7日、二隻の中国漁船が釣魚島海域で漁を行っていた際、中国漁船の船長が日本の海上保安庁に逮捕され、日本は法に基づいて中国の漁民を処分すると発表した。これに対し中国政府は一連の抗議を行い、日本の駐中国大使を数回にわたって呼び出した。日本が強硬な態度を取り続けたため、中国は両国間の省(地方政府)と閣僚級以上の交流の中断、航空便増便に関する接触の中止、中日石炭関係総合会議の延期、中国公民の日本旅行の制限などの措置を講じた。
9月24日午後、日本は違法に拘留していた中国漁船の船長を処分保留で釈放すると発表。これにより、釣魚島海域付近で発生した船舶衝突事件は一区切りついた。
しかし、今回の事件の影響は依然として存在している。船舶衝突事件の発生後、中日は半月余り対立してにらみ合い、中日関係はたちまち凍りついた。釈放前には、中国の釣魚島保護派が日本大使館前で抗議デモを行った。釈放後は、日本の右翼も日本政府の態度が軟弱だとして中国国旗を燃やして鬱憤を晴らし、中日の国民感情は対立した。
今回の事件によって中日関係は明らかに損害を被り、中日の民間の相互信頼は試練を受けた。注目されているのは、いかにして類似した事件の再発を防ぐか、中日関係はどこに向かうのかということだ。
中日関係に根本的影響は与えない
これらの問いに答える前に、中日間の釣魚島に関する争いの背景について基本的に理解しておく必要がある。
釣魚島は古来より中国の領土である。釣魚島は中国東海大陸架の東のふちにあり、地質構造上は中国台湾の大陸性島嶼に属している。明朝初期には早くも、釣魚諸島は中国領土であることが明確にされ、明、清の二つの王朝はいずれも釣魚諸島を中国の海防管轄範囲下に置いてきた。1895年、日本は甲午戦争(日清戦争)で清政府の敗色が濃くなったのに乗じて、『馬関条約』(下関条約)調印の三カ月前にこれらの島嶼を奪い、沖縄県の管轄下に置いた。1943年12月、中、米、英が発表した『カイロ宣言』では、東北、台湾、澎湖列島など、日本が中国から奪った領土は中国に返還すると定めている。1945年の『ポツダム宣言』では、「カイロ宣言の条件は必ず実施するものとする」と定められた。同年8月、日本は『ポツダム宣言』を受託して無条件降伏した。これは日本が台湾とそれに付属する釣魚諸島を中国に返還することを意味するものだ。
しかし1951年9月8日、日本は米国との間に『サンフランシスコ講和条約』を調印し、釣魚諸島は沖縄と同時に米国の管理下に置かれた。1972年に米国が沖縄の主権を日本に返還した際、同時に釣魚諸島の行政管轄権も日本に移管された。しかし国外の中国系の人々が組織する釣魚島保護派の運動により、米国は日本に移管したのは管轄権であって主権ではないことを公言した。
釣魚島には複雑で込み入った歴史があるため、紛争が絶えないのも不思議ではない。例えば、1978年、中国の多くの漁民が「釣魚島は中国の領土」とチョークで書かれた船を釣魚島海域に進めた。このため日本側は中国の駐日本大使館と連絡を取ったが、この時の大使館スタッフの回答は「釣魚島は中国の領土で、中国の漁民には操業する権利がある」というものであった。この件が発生した当時、『中日平和友好条約』交渉が6年間にわたって断続的に行われており、重要な時期に入っていた。しかし中日双方の指導者は大きな影響は受けず、予定通り調印を行った。これは少なくとも当時の状況下では、中日双方には旧ソ連の覇権への対抗などの面で共同利益が釣魚島よりもはるかに重要であったことを物語っている。だからこそ、鄧小平が打ち出した「論争を棚上げし、共同開発する」という方針が日本側にも受け入れられたのだ。
この後も、釣魚島海域ではよく騒動が起こった。1990年、日本青年社が釣魚島に灯台を建設した。2004年には馮錦華ら7人の中国釣魚島保護派が釣魚島に上陸。日本の右翼もすぐに島への上陸を希望したが、日本政府はこれを許可しなかった。2006年、台湾の漁民が釣魚島海域で日本に捕らえられたがすぐに釈放され、日本はこれについて謝罪を行った。
これらの事件は、釣魚島には確かによく争いが起きるが中日関係に决定的な影響を与えるものではない、ということを説明するに十分だ。同時に、釣魚島の争いは抑えられないわけではなく、双方の政府が抑制された態度を保ちさえすれば、釣魚島海域の平静と両国関係の平穏が保たれることも物語っている。
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