林国本
中国の大新聞『人民日報』と日本の新聞社の間で一年おきに持ち回りで開かれていたシンポジウムの同時通訳のお手伝いで東京に赴いていた時、シンポジウム閉幕後、中国側の参会者にショッピングの時間が設定された。いつものように中国側のほとんどの人は、日本の化粧品などを買って帰りたい、と言い出した。ただ1人、当時、シンポジウムのパネリストとして来ていた、中国国務院発展研究センター主任の王夢奎さんは、「自分は学生時代、文豪魯迅と内山完造との交友関係についての小文を読んだことがあり、内山さんの人柄に深い感銘を覚え、それ以後、もし日本訪問の機会があれば、一度、内山書店に行ってみたいと思っていた。この自由時間を利用して、ぜひ、のぞいてみるだけでいいから行って見たい」と言い出した。私は駐日特派員として東京に長期滞在したことがあり、神田の書店街にも詳しい、ということで、私が王さんのガイド役を務めることになった。そういう私も若い頃、魯迅と内山完造のことを読んだことがあるので、私は王さんの気持ちをよく理解することができた。
もちろん、東京の内山書店のイメージはかつての上海時代のものとは完全に違うものだが、ノスタルジーの原点として、われわれの心の底にいつまで残っているものであった。
神田の内山書店に足を踏み入れた王さんは、若き日の夢を実現した気持ちであったに違いない。帰途、神田の小料理屋の二階の畳の間で、王さんとうな重に舌つづみを打ちながら、郭沫若と甲骨文字とか言った、難しい話をしながら昼食の時間を過ごした。
王さんは、ずっと中国の政府系のシンクタンクのトップとして、難しいテーマに取り組んできた人だったが、この日の王さんはまるで文学青年の時代に戻ったかのように、ジャーナリスト出身の私のぶしつけな質問に、まるで友人のような表情で答えてくれた。私は上司とかいう人間にも平気で質問をぶっつける職業習慣があるので、お困りになっているのではと思ったが、王さんは友人とヒザをつき合わせて話し合っているように、どんな話にも答えてくれた。
ふだん、こういう閣僚級の人はいばっているものだが、この日の王さんはまるで親友と話し合っているようだった。この日のうな重がたいへんおいしかったのか、ビールがうまかったのか、とにかく長時間雑談にふけっていた。
私は内山書店で買った本を取り出すたびにこの日のことを思い出している。王さんも引退して、文人となって第二の人生を送っていることらしい。内山書店近くの料理屋での、うな重をつつきながらのひとときは忘れることはできない。
実を言うと、私と王さんとはまだつながりがあるのだ。王さんたちが起草、執筆した政府文書を、私が僭越にもその日本語訳を「監修」しているのだ。大文人と私にはこいうところでも接点があったのだった。
「中国網日本語版(チャイナネット)」2010年7月20日 |