林国本
さいきんは、大学卒(ときには院生も含む)の「就職難」ということが、しばしばメディアで取り上げられている。将来に夢を描いて大学生活を終えたはいいが、就職でちょっとつまずくとは思ってもいなかっただろう。心から同情したいし、励ましてあげたい気持ちでいっぱいだ。
10年ひと昔、いや60年ひと昔というべきかもしれないが、筆者たちの若い頃は建国初期ということもあって、まさに「売り手市場」で、外国語のスキルひとつに限っても、ちょっとひとひねりすれば稀少価値になれないこともない環境であった。日本語のほかに、英語が少しできれば、それこそよっぽとつむじまがりでないかぎり、肩で風を切って暮らしていけたものである。そのため、どうも肌に合わないと感じれば、鞍替えしてしまう人もいた。日本で一時よく使われた「トラバーユ」とか、「デューダ」ということがそれである。
ところが、改革、開放で社会がどんどん進歩していくなかで、求職者の受け皿となるところも、リストラクチュアリングが進み、それこそ就職もますますむずかしくなってきたようである。
中国の外国向けの雑誌にも、このテーマについての特集が組まれるご時世となっており、これはこれからの社会のテーマのひとつになるかもしれないと見ている。
さらに言うならば、情報社会、知識社会という流れがますます顕在化し、政府機構にしても、企業にしても、効率化、少数精鋭主義ということが重要視され、以前のように大勢の人間を抱えるやり方はもう永遠に過去のものとなった。
筆者が数十年もお世話になったメディアの一セクションなども、筆者がいたころは30人ぐらいいて、それでも忙しい、忙しい、という人がいた。筆者は自分を育ててくれた人民に申し訳ないと思っているが、私は自分のバイオリズムを非常に大切にする「頑固もの」で、朝、出勤するとまず景徳鎮産の湯呑み茶碗で竜井茶というかなり質のよい緑茶をゆっくり飲んで、日本の新聞数紙、週刊誌数誌にじっくり目を通し、それから仕事をするパターンにかたくたに「固執」してきた。いまから振り返ってみると、よくもこれほど「頑固」に自分のスタイルを貫いたものだと、反省している。イヤな顔をしていた人も、一人か二人いたが、それでも私はそれ貫いてきた。考えてみると、今日であれば、私のような「変人」は百パーセント就職の口が見つからず、たいへんなことになっていることであろう。今でも私は国立図書館で日本の新刊書のかなりのものはちょっと目を通しているし、ちゃんとノートをつくっている。
だが、今の若者にはとうてい、こういうライフスタイルをすすめることはできない。逆に、「妥協は政治のテクニック」とか「柔軟な自我構造の構築」とかいう言葉を参考としてすすめたい気持ちである。聞くところによると、世界的な経済危機の中で、「トラバーユ」とか「デューダ」とかいうホコは一応収めて、台風の吹き去るのを待つ人もいる、と一部メディアは報じている。今、荒野に飛び出せば、あぶハチ取らずに終わるリスクもあるからだ。そういう時期であるので、それこそ、サッカーなどでゲームを組み立てるか、変化に富むパスで相手側をディフェンスを崩すか、いろいろ頭を使うことも必要となろう。
さいきん、あるタクシーの運転手との雑談の中で「クルマの運転なんて、ほとんどの人ができることだから、もう特殊技能ではないですよ」ということを耳にした。それと同じように、大学のテキストぐらいのレベルの日本語、英語では特技とはいえないご時世になっているのである。
一人っ子の世代は、頭脳明せきで、幅広い知識を持っている人が多い。しかし、それだけではワン・オブ・ゼムにすぎない。これからの世の中で必要とするのは、オンリー・ワンへと向かう知識構造ではないだろうか。こういう言い方は、若者にとって酷かもしれないが、選ぶ側、採用する側に身を置いてみてはどうか。何かひとつ光るものを持っているものの辞典には失業とかいうボカビュラリーをのっていないと言ってもよい。ゲームとかカラオケを楽しむことも人間の幅は広げるという点で必要かもしれないが、私がいつもかたくたに、日本語学徒に対して語りかけるときに、中国の日本語畑で生きていくからには、日本人と同じぐらいの知識の蓄積、中国人と同じレベルの知識の蓄積、さらに英語、フランス語、ドイツ語を少しかっじておかないと、この世界では、下積みとして人生を終えるしかない。たとえ、管理職になっても、それは永恒不変のポストではない。やがてそこから降りる時も必ず来る。
要するに、筆者が言いたいことは、ぬるま湯に漬かりつづける発想の転換が必要だということである。
「北京週報日本語版」2009年2月24日 |