ダライ・ラマ14世がこのほど発表した、「西蔵(チベット)民族の名実共の自治実現に関する意見」は「西蔵亡命政府は西蔵人民の利益を象徴し、西蔵人民を代表するものだ」という旗印を「名実共の自治」に関する各条項に盛り込み、なかでも「宗教」の一項には大きな誤解を招く表現がある。
この「意見」では、「わたしたちは政教制度の分離はとても重要だと認めているが、これによって信徒の自由と宗教実践を犯すべきではない」とし、さらには「国際基準によって詳しく説明するなら、信仰と実践の方法は宗教の自由に含まれ、この宗教の自由には宗教の伝統的な寺院管理や、教えの修行と実践、宗教制度に基づき寺入りする僧侶の人数や年齢を決め、説法を説くなど自由な宗教儀式と活動も含まれる。このため、師弟関係や寺院管理、転生霊童の認証などをはじめとする一般の宗教活動に対し、政府は一切干渉すべきではない」と表明している。
事実、信教の自由は中国憲法が国民に与える基本的権利だ。「中華人民共和国憲法」には、『中華人民共和国の国民は信教の自由を持つ。いかなる国家機関、社会団体および個人であっても国民の信仰を強制してはならないし、信仰をもつ国民、信仰をもたない国民を差別してはならない。国家は正常な宗教活動を保護する。いかなる人も宗教を利用して社会秩序を乱し、国民の健康を害し、国家教育制度の活動を妨害してはならない。宗教団体と宗教事務は外国勢力の支配を受けない』と規定している、このほかにも中国の「刑法」「民法通則」「民族区域自治法」「義務教育法」などに国民の信教の自由保護について、信仰をもつ国民を差別してはならないという相応の条項がある。しかし一点明確にしておかなければならないのは、信教の自由がすなわち宗教活動の自由ではないことだ。どんな宗教を信仰するかは個人の自由だが、宗教活動となると社会や他人に関わってくるため、法的拘束を受けなければならない。これはどの国でも同じことだ。
ダライが要求する「宗教の伝統」や「宗教制度」によって寺院を管理し、僧侶を受け入れるという、法的拘束を受けない絶対的な「宗教の自由」とはすなわち西蔵民主改革以前のダライの指導下にあった「宗教至上主義」の局面に戻ることを意味する。当時西蔵には2676の寺院と12万の僧侶が存在し、西蔵の総人口のおよそ10分の1を占めていた。寺院が社会の生産資源を3分の1以上コントロールし、貴族や官僚と共に「三大領主」による統治を行っていた。その結果、社会発展を阻害するだけで、なんらメリットを生まなかった。
「中華人民共和国義務教育法」では、「義務教育は国家が統一して実施するすべての適齢期の児童、少年が受けなければならない教育であり、国家が保障しなければならない公益的な事業である」、「中華人民共和国共和国の国籍をもつ適齢期の児童、少年であれば、性別・民族・種族・経済条件・信仰などを問わず、法に基づき平等に義務教育を受ける権利があるとともに、義務教育を履行する義務がある」と規定している。ダライのいう「宗教制度に基づき寺入りする僧侶の人数や年齢を決め、説法を説くなど自由な宗教儀式と活動」を行えば、社会発展の規律に反するだけでなく、「中華人民共和国義務教育法」にも反することになる。
現在信仰者には十分な信教の自由があり、チベット仏教の信徒の家にはほぼ仏壇が置かれ、自分の意思で僧侶を自宅に招き読経や仏事ができる。毎年拉薩(ラサ)を訪れて焼香する信徒は百万人以上にのぼる。こういった状況は誰の目にも明らかであるにもかかわらず、ダライは西蔵の人民に信仰の自由がある事実を否定し、いわゆる「国際基準」を楯に憲法修正を要求している。その意図が西蔵の民主改革以前の「政教一致」体制の本質を取り戻すことにあることは明白だ。
「人民網日本語版」2008年12月05日
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