1954年に王有徳氏が生まれた霊武市の小さな村は、彼が子どもの頃から沙漠に呑み込まれていき、村人はみな移転を余儀なくされ、ここに残ったのはわずか数百世帯だったという。1980年代初め、久しぶりに故郷の村を訪れた彼は、その光景に愕然とする。あたり一面、黄色い沙に覆われ、最後まで残っていた数世帯の塀の根元までもが沙に埋もれていたのだ。その時、彼は沙漠を改造しようと決意する。折しも1985年、彼は白芨灘防沙営林場の副場長として赴任する。
それまで植樹の主役であったポプラ、カラガナなどの落葉高木・低木は落葉のあとには防風効果が下がってしまうが、白芨灘営林場のあるモウス沙漠では、ちょうどその秋冬の季節に風が最も強く、強風に沙が吹き上げられて沙漠整備の成果が台無しになってしまうことがままあった。これに対して王有徳氏など同営林場の専門家や職員らは、長年の実践と研究から日照りに強いマメ科の沙冬青や花棒、沙柳(スナヤナギ)などを植樹・植草に加えるとともに、モンゴリマツやコノテガシワなど38種類の移植を成功させ、沙漠では難しいとされる移植と活着の壁を乗り越えた。
また、王有徳氏が赴任した当時の白芨灘防沙営林場は、職員の年収がわずか数百元、1年のうち半年以上は仕事もなく、ほとんどの職員が転任を望んでいるような状況だった。しかも、春の造林の季節には臨時に人を雇わなければならず、造林コストは上がる一方で、こんな状態では、当然、沙漠改造も沙漠化防止もあったものではない。
そこで、王有徳氏は改革に大ナタを振るう。まず、事務職員など後方勤務の職員の削減、次に現場職員の等級に基づく給与体系を能力給に改め、それまでは外部の人を雇って行っていた造林事業もすべて営林場の職員が自ら行うなど、一連の改革を実施する。具体的には世帯もしくは個人を対象にそれぞれを競わせ、期限付きの緑化契約を結び、賞罰を明確にするとともに、職員の年末査定や福利待遇を苗木の活着率や保存率、植生被覆率とリンクさせ、積極性と責任感を引き出した。これにより沙漠改造に対する熱意がこれまでにない高まりを見せ、従来の「やらされる造林」から「やる造林」へと職員の意識が変わった。その結果、造林事業の達成率は目標を上回って132%となり、苗木の活着率も22%増加した。
一方、公益事業体としての同営林場には財政補助があるとは言え、85年当時の補助金は159人の職員に対してわずか15万元。その額は苗木の購入や職員の生活などを補うにはほど遠い額であった。こうした局面を打開するため、王氏は果樹園や剪定後の枝を使ったヤナギ細工の加工工場、レンガ工場、緑化工事会社などを設立して収入の道を切り開いてきた。
こうした数々の努力が実り、この5年間だけでも5300ヘクタール余りの人工オアシスがつくられ、沙漠化を10キロ後退させるという効果をあげると同時に、職員の平均収入は2万元を超え、85年当時の数十倍となった。
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