文成王女の塑像(カラフルな塑像)(1978)
写真はポタラ宮にある文成王女のカラフルな塑像である。『チベット王統記』の記載によると、文成王女がチベット入りした時、唐の皇帝は彼女に数多くの嫁入り道具としてお釈迦さまの12歳頃の等身仏像1体、貴重な宝物、書籍 ──仏教の経典360巻、建築と工芸品の技術書60余種、病気を治療するための処方と医療器具400余種および農作物と野菜の種などを贈った。文成王女はチベット入りした後、チベット族の人たちに土地を耕し、穀物などの作物を栽培し、河川の落差のあるところに水力によって動かす臼(うす)を据え付け、それによってハダカムギやその他の穀物をひいて粉にすることを教え、また酒の醸造や建築などの先進的な技術を教えた。王女はまた侍女と一緒にチベット族の女性たちに紡織や刺しゅうなどを教えた。王女はトバン経済と文化の発展のために大きく貢献した。
西暦 649年、唐の高宗皇帝が即位し、ソンツェン・ガンポは直ちに唐朝宰相の長孫無忌に書簡を送り、「天子(皇帝)は即位されたばかりであるが、もし臣下に忠実でないものがいるならば、軍隊を率いて国のためにそれを討伐してもよろしい」と伝え、さらに金や銀、真珠・宝石15種を献上し、宰相にそれを唐の太宗皇帝の霊位の前に供えるよう頼んだ。唐の高宗皇帝はソンツェン・ガンポを「駙馬都尉」(王女の夫が専任する侍従武官)、「西海(チベット)の郡王」に封じた。唐朝とトバン(チベット)が婚姻関係を結んでから、ソンツェン・ガンポおよびその後の後継者はいずれも唐の皇帝とは甥とおじさんと称呼し合う間柄になった。この歴史的事実は漢族とチベット族の関係がとっくに非常に密接なものであったことを十分に裏付けている。
文成王女は仏教の敬けんな信者で、博識多才の女性であった。王女はトバンの仏教を発展させるため、人夫や職人を組織して土木工事にたずさわらせ、ラマルチンラカン(つまりラモチェ寺)を築造させた。王女はチベット族の人々に心から敬われ、チベット族の歴史学者は王女にツォイべイム(ハスの花)というチベット族の名前を付け、それは美しくて純潔な人という意味であった。チベットの民間ではさらに多くの文成王女と関係のある感動的な物語と詩歌が伝わっており、チベットの地方劇の中での伝統のある芝居『文成王女』はとりもなおさずこの傑出した女性をたたえたものである。
王女はトバン(チベット)で約40年間暮らし、厚遇されつづけるとともに、トバンの人たちに心から尊敬された。そして西暦680年に病死した。
チベット族の人たちは文成王女を偲び、多くの宮殿と寺院には王女の塑像が祭られている。 |