これはラサの1957年の祈願大法会(一般に「伝大昭」といわれる)である。ラサは雄壮で美しく、神秘的な古城で、ラサの伝昭大法会はこの雄壮さ、美しさと神秘さをクライマックスに押し上げた。1957年2月、チベット暦の新年が来て、1月2日から「伝大昭」が始まり、レプン寺、セラ寺、ガンデン寺の三大寺のラマ僧が山を下りて、地方の各大小寺院のラマ僧も出席し、僧侶の総人数は約3万人以上にもなり、市街区は赤い人間の潮が流れているようで、見渡す限り袈裟をまとった僧侶で、ラサはラマ僧の世界となった。僧侶ではない信者は更に数えきれないくらいで、伝昭大法会の期間に、社会秩序は混乱を極め、窃盗、略奪、けんか、人殺しが時には発生した。当時、機関の幹部・職員が大門を出ることを許さないよう規定されていた。
私は職業的な「習性」かも知れないが、いつもその場に出かけて経緯を見届けたいと思った。しかし、新聞社のトップは認めてくれなかった。私はこっそり編集次長のガシュエ・ドンチュ氏(チベット地方政府に派遣されて新聞社に勤務していた4級の官吏)のところに行って助けを求めたが、彼も首をヨコに振って、社会治安がよくなく、その上新聞社のトップもだめだと言っているというのだった。間もなく、ガンデンチバ・トドングェンガ(ゲル派の祖師ゾンカバの法位の第96代継承者、中国仏教協会チベット分会会長、ラサ祈願大法会の司会者)はチョカン寺の「スムチュラ」広場に行ってお経を講義することになっていた。新聞社はこのことを報道するため、ガシュエ・ドンチュ氏と私を取材に行かせ、私はついに願いがかない、急いでカメラを肩に出かけた。バゴ街に着くと、すでに大通りは水も漏らさないほどで、横切ることさえできなかった。ガシュエ氏は私におカネを持っているかとたずね、私はポケットをたたいて、ちゃりんちゃりんという音を出し(当時のチベットでは人民元は流通しておらず、銀貨しか流通していなかった)。彼は「ドゥオド」(治安を維持する武僧)をさがして道を開けてもらうのに必要なのだと言って、1元銀貨3つを持って行き、木の棒を握り、腰に長い刀をぶら下げているラマ僧に向かって手で合図した。やってきた人は背が高く、大きなウマにまたがっていて、腕に赤い布を結びつけ、顔が黒く、頭の後ろ側にひとつまみの長髪を蓄え、まるで人殺しのようだった!ガシュエ氏はこの人を「ギュシュ」(先生)と呼んで銀貨をあげ、そして私たちの意図を示した。「ドゥオド」はうなずいてなにも言わず、長い棒を振り上げて、歩きながら人をたたくふりをし、大声で「道を譲れ!速く!」と言った。「ドゥオド」に逆らう人はなく、人々は次から次へと頭を抱いて道をあけ、人込みの中にすぐ1本の道ができた。このようにして、私達は大急ぎで法会司会者のガンデンチバのお経の講義をしている法台の下に出た。
伝昭大法会は1409年から始まり、ゲル派のゾンガバ大師がラサで創設したものである。その本意は大規模な宗教の法会の開催を通じて、ゲル派の影響力を拡大し、同時にまた法会を通じて資金と財物を集め、ゲル派寺院と僧侶たちを養うことであった。数千人の僧侶を集めてお経をあげてお祈りをし、布施をおこない、仏の教えを伝え、チベットにおけるゲル派の地位をさらに高めようとした。ゾンカバの主張は、チベットの首領、第1回祈願大法会の総施主ザバギャルツェンの後押しと協賛を得た。その後、毎年チベット暦の新年になると、盛大な「祈願大法会」が催された。
写真は1957年2月(チベット暦の1月3日)、僧侶たちがラサの「スムチュラ」広場でおこなった読経行事を記録したもの。伝昭大法会の期間、すべての僧侶は1日に必ず6回読経しなければならなかった。読経とお経をめぐって弁論することは「祈願大法会」の最も重要な内容であった。僧侶達は、人生の「苦しい境遇」を抜け出すためには、お経をあげてお祈りし、長期にわたって修行する以外になく、「戒律」、「安定」、「知恵」の3つの学問を通じて、はじめて究極的に「悟りの果実」を得ることができると信じていた。(写真・陳宗烈) |