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チベット仏教  
サキャ北寺(1957)

 

サキャ北寺は1073年に、クェンゴンチュジェボがツァン・チベット西部のズォンチュ川のほとりのボブリ山の麓につくったもの。彼は自ら寺の住職となり、しかもここで仏の教えを約30年間も伝え、サキャ派の形成、発展の基礎を打ち固めた。のちにゴンガギェルツェン(1182-1251)に伝わった時に、その名望が四方八方でよく知られるようになり、人々は彼を「サキャパンチダ」(「サパン」と略称し、「パンチダ」は大学士の意味である)と尊称した。教派の隆盛に従って、更に元代の中央政府が後ろ盾となったため、チベット地方の政治の中心は西のサキャに移った。

1235年、蒙古が大挙して南宋(1127-1279)に攻め入り、ジンギスハーンの曾孫のクタンが西部進撃を指揮し、彼はかつて住んだことのある西夏(1038-1227)と甘青、青海のチベット族居住地区に対する支配を打ち固め、蒙古軍が四川に南下する際の両側面の安全を確保するため、チベットに対し軍事行動をとって、チベット族居住地区を蒙古ハーン国の支配に組み入れることにし、そしてドダナブ大将軍を派遣して騎兵を率いてチベットに進撃させた。クタンはチベットの統一には、必ず地元の宗教勢力を利用しなければならないことを意識した。彼は当時、サキャの勢力が最も大きく、その上住職サパン・ゴンガギェルツェンがチベットの各教派の中での威信が最も高いことを知って、そこで、彼を涼州(今の甘粛省の武威)に会いに来るよう招いた。

1246年、ゴンガギェルツェンはチベット各地の僧侶と非僧侶のリーダーたちを代表し、そして2人のおい(兄弟の息子のバスパとチャナドジ)を連れて涼州に赴き、元の王子クタンと会見した。 会談を通じて、チベットが蒙古に帰順する条件を取り決めた。クタンはゴンガギェルツェンにチベットの13万戸を支配する権力を与えた。ここで言う「万戸」は別に1万戸の人口ではなく、当時の社会の行政単位の一種であり、あるいは集落の長が治めた政治的単位と見なしてもよい。ゴンガギェルツェンはのちにチベット地区の各僧侶と非僧侶のリーダー宛ての書簡を出し、事実を列挙してチベットが蒙古に帰順することは大局の赴くところであることを説明した。各地のリーダーたちは会議を開いてこの書簡を討論した後、一致してゴンガギェルツェンの見解に賛意を示した。それ以後、チベットは蒙古の統治下におかれることになった。しかし間もなく、ゴンガギェルツェンは涼州で病没した。彼は一番上のおい── サキャ派の第5世祖師のバスパ・ロチュギェルツェンを後継者にした。 その以後、バスパはチベットを祖国の各民族の大家族に組み入れていた歴史的時期となった。

西暦1264年、蒙古の貴族が全中国を統一し、フビライは北京に元の王朝(1271-1368)を樹立した。トバン(チベット)の各部族は元王朝に帰順し、チベットの長年にわたる混乱、割拠の局面に終止符が打たれ、正式に中国の中央王朝管轄下の行政区域の一つとなった。

チベット地方の政治・宗教首領を中央政権に取り込み、中央王朝のチベットに対する政治的管轄を強化することは、元王朝がチベットに対し主権を行使する重要な措置の一つであった。1270年、フビライは彼の身辺に9年間も続いたバスパ・ロチュギェルツェンを「国師」に封じ、その後「帝師」に封じ、さらに総制院(のちに宣政院と改称した)を設立し、帝師はそれによって全国の仏教事務とチベット地方の事務を全般的に管理することになった。これは元王朝が設立した最も高い僧官の職務であり、のちに制度化され、帝師の職も元の皇帝が直接任命する王朝の高級官吏となった。元王朝の統一された官職制度によって、チベット地方の最高の主管官吏は宣慰使司都元帥であり、それ以外にさらに万戸長、千戸長、招討使などがあった。多くの僧侶・非僧侶の貴族と上層部の僧侶に官職が授与された。元王朝は次のように規定していた。すべての僧侶と非僧侶の官吏がいずれも総制院の指導を受けること、トバン各地の宣慰使と万戸長は、元王朝の帝師あるいは宣政院によって指名されるとともに、皇帝によって任命されること、各クラスの官吏はいずれも「僧侶と非僧侶のどちらも登用し」、「軍と民のどちらも管轄する」。中央王朝はまた人を派遣してチベットに行って戸籍を調査し、宿駅を設置し、徴税制度を整備し、同時に元の暦法と一部刑法をチベットにおいても適用した。その後、元の皇帝はさらにバスパを「大宝法王」、チャナドジを「サキャ法王」に封じた。その時代においては、サキャ地域はチベットの政治、宗教、軍事、経済と文化の中心地となり、歴史的にサキャ王朝と呼ばれた。

チベット地方は元の時代に正式に中国の切り離すことのできない重要な構成部分となり、これは中国(チベット地方を含む)の内在的歴史発展の必然的な結果であり、チベット族と祖国の各兄弟民族が長期にわたって政治、経済、文化の交流を行う血と肉のような関係の発展の必然的結果と共通の利益の要請でもあった。共に外部からの侵略に抵抗し、祖国の南西部国境を強固にした歴史的業績ということにおいて、サキャ教派の指導的人物は積極的な貢献をした。

中央王朝元の後押しのもとで、サキャ派の首領はチベット地方の政治と宗教における支配的地位を得た後、職人や労務者を集めて、盛んに土木工事に取り組み、サキャ北寺を拡充した。続いて南寺をつくった。現在、北寺はすでに廃墟のようになり、南寺は比較的完全に保存されている。(写真・陳宗烈)

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