もとのチベット地方武装力(チベット軍と略称)――1793年に清王朝の福安康将軍が軍隊を率いてチベットに挺進し、ゴルカの侵入を追い払い、全勝を収めた後、直ちに清の朝廷に報告し、国境の安全、国防を強固にするため、チベットで地方常備軍を創設することは非常に必要であると提言し、報告は皇帝の認可を得た。そいうことで、チベットには清軍をモデルとした地方軍が創設された。
しかし、ここ100年来、イギリス人はチベットを中国から切り離し、なんとかして分裂主義勢力にチベット軍をコントロールさせようと企み、 1917年以後、チベット軍は大挙して東へ進撃し、四川、西康の境界を大挙して侵犯した。1918年には、チベット軍はチドゥゾン(現在のティンチェン県)の労役と租税が重すぎるため陳情を行った大衆に血生臭い弾圧を行った。1947年に、チベット軍はセラ寺とラチェン寺の僧侶たちを殺害するとともに、なにもはばかることなく略奪を行った。1949年に、チベット軍は国民政府チベット駐在事務所などの機関を包囲し、ラサに設けられていた国民政府のラジオ放送局と学校などを閉鎖した。
1950年9月、中国人民解放軍がチベットに進軍し、もとの地方政府の中の親イギリス分子はチベット軍を派遣してそれを阻止させ、結局、チベット軍の大部分はチャムド戦闘の中でせん滅され、デゲ・ゲサンワンドィが率いる軍隊の将兵全体が武装蜂起を行い、中国人民解放軍に再編され、チャムドに駐屯して、建設に参加し、有益な貢献をした。1959年3月、その他のチベット軍各部隊は少数のもの以外、武装反乱に参加した後全部せん滅された。(写真・陳宗烈)