ゲシュエドンチュさんはもとの「ガシャ」(チベット地方政府)の4級の官吏であった。1956年『チベット日報』の創刊の際、「ガシャ」はゲシュエドンチュを派遣して新聞社に行って副編集長となった。人々はドンチュさんを「ゲシュエセさん」と呼び、意味はゲシュエ家の坊ちゃんということである。その少年時代はかつてインドで就学し、英語がわかり(ダライラマの英語の書記官を務めたことがある)、チベット語の基礎もよいが、漢語はできない。
「家柄・身分がつり合う」という伝統に従って、彼はツァユン家の3番目のお嬢さんソランチョマさんを妻として迎えた。1956年、彼はかつてチベット愛国青年懇親会副主任の身分で、中国青年代表団の一員としてブダペストを訪れ、世界青年交歓祭に出席した。
1959年3月、彼は武装反乱分子の脅迫を顧みることなく、毅然としてもと住んでいた官邸から家族を携えて新聞社の庭にある住宅に引っ越した。武装反乱分子の密集した銃声・砲声の中で、新聞社の従業員たちと一緒に動乱を迎え、ろうそくの光の下でチベット語版の『チベット日報』を編集・翻訳した。1969年に病死した。(写真・陳宗烈)
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