ツァユン・ダサンズァンドィはもとはラサ北東部のポンボ地方のある矢を作る職人の息子であったが、仕事があまりにもきついため、セラ寺に出家して僧になり、ある僧官の侍従となり、のちにロブリンカ庭園へ草花や樹木を植えに行ったりした。1904年に、イギリス軍がラサに進攻し、13世ダライラマのトゥプテン・ギャムツォは一部の官吏とお供をしたがえて夜中に中国の他の地方へ逃れた。随行のツァユンという人は頭の回転が速く、ダライラマに対する世話も行き届き、ダライラマの歓心を買ったため、ダライラマの側近の侍従となった。ツァユンはモンゴルのクルンに行ってモンゴル語を身につけ、おかげで仕事にプラスとなったばかりでなく、よくダライラマの通訳の仕事もし、ダライラマにとっては更に余人に変え難い存在となった。
1911年の辛亥革命の後、ラサは大混乱状態にあった。当時、ガロン(チベット地方政府の主管高官)の1人であったツァユン・ワンチュジポとその息子はいずれも「清側に近い人間」という罪名で1912年の粛清の中で殺された。1913年、13世ダライラマはラサに戻り、ツァユン家の悲惨な最期を耳にして非常に同情し、ダサンズァンドィをツァユンの家に婿入りさせ、後家となったツァユンの息子の嫁リンゾンチュチェンの夫となるよう決めた。名門の出身、聡明できれいなリンゾンチュチェンは、身分の卑しい従僕を卑しめ、断固として従わなかったが、公然と神である王の意図に逆らうこともできず、出家して尼僧になることを口実として婉曲に断わった。ダサンズァンドィの感情を傷つけないために、リンゾンチュチェンはまたダサンズァンドィにツァユンの長女、バイマチョガと結婚させるという双方を納得させる方法を打ち出した。昔のチベットの貴族は、土地と属民を擁していたほか、官僚になる権利もあった。ダサンズァンドィは貧しい家の出身で、以前のしきたりによれば、一般の平民には官途につく可能性はなく、どうしてもその必要がある場合でも、必ずまず貴族にならなければならなかった。ダライラマの特別の寵愛を受けるため、ダサンズァンドィはツァユン一族に婿入りし、ツァユンの代々の貴族の後継ぎとなった。その後とんとん拍子で出世し、たちまちチベット軍総司令官に昇進し、続いてまたガシャ(チベット地方政府)のガロン、スロンなどの官職についた。当時、ダライラマを除いて、ダサンズァンドィはほとんどチベットで最も権勢のある人となった。ツァユンがなくなった後、もとの「大貴族」はすでに名ばかりで実質が伴わず、古い邸宅のほか、残っていたのは債務のみであった。ダサンズァンドィはこの一族をあらためてもり立てる決意であった。彼の教育レベルは高くはなかったが、聡明で経済に明るく、金儲けもうまかった。彼は職権に頼って、チベット地方政府の財政局からお金を借り、腹心を派遣してまずインドに行ってチベットの羊毛と牛の絨毛を売り、大量の金、銀、絹織物と毛織物を仕入れて運び戻り、さらには成都、康定、西寧、大理などで商店を開設し、チベットの土産品とインドから運んできた外国製品を売り、同時にラサ、シガズェなどで中国の他の地方の陶磁器、絹織物、茶などを売った。彼はバゴ街にあるツァユンの旧宅を新興の富豪バンダチャンに売り、自分はシャザリンカ(庭園)で土地を購入し、三階建ての豪華な住宅をつくり、その東西両側にそれぞれ1つの美しい庭園をつくり、庭園の中にはさらに西洋風の別荘を建てた。ダサンズァンドィはまた婚姻関係を利用することに長じ、上層社会で姻戚関係のネットを張りめぐらした。彼はツァユン家の長女と結婚した後間もなく、美人の次女を大貴族ホカン家に嫁がせ、ザサホカン・ポンツォワンチュ夫人となるようにし、三女ツェリンユィチェンをシガズェのところに嫁がせ、大貴族デロニョデン家の2番目の若君の夫人となるようにし、さらに四女のリンチェンチョマをインドのダージリンに留学させ、学業終了後、大貴族チェリン・ジンメイのところに嫁がせた。ツァユン家の次女ツェタンチョガが年を取ったホカンのところに嫁いだ時はわずか16歳でしかなく、その後男の子1人、女の子1人を生み、息子はホカン・ソランビェンバ(前世紀にかつてチベット自治区政協副主席を務めたことがある)と呼び、娘が大きくなった後ギャンズェの貴族ネドィの妻となった。しかし、ホカンザサが年を取った上にいろいろの病気を患い、その後死去した。ホカンザサが死去した年にツェタンチョガは24歳だった。この美しい未亡人を前にして、ダサンズァンドィは同情して、常にその生活を世話するという口実でホカン家に行って面度を見るとともに、彼女と同棲し、しかも子女6人も生ませた。そういうことで、ダサンズァンドィはツァユン家の姉妹2人の夫となった。チベットの伝統的社会では、兄弟が妻を共有し、姉妹が夫を共有する婚姻の習俗があったため、ダサンズァンドィのやったことは別におかしいものではなかった。しかし、この6人の子女がホカン家で生まれて成長することは、ホカン一族にとって重い負担であることは明らかであった。貴族の家庭では、すべての子供に専従の使用人、保母をつけなければならず、娘たちがお嫁に行く時にはまた嫁入り道具をどっさり持たせなければならなかった。ホカン一族はチベットでは非常に高い名声があるが、経済的には非常に貧しく、このような重い負担に耐えられなかった。長男のホカン・ソランビェンバはすでに成人し、一家で主な役割を果たし、実の母親と争うこともなかったが、ダサンズァンドィをガシャ(政府)に告訴し、ダサンズァンドィはやむなく自分の肉親の子供たちをツァユンの家に迎えて暮らすことになった。彼の妻ペイマチョガは子供を生めなかったので、これらの子女は当然ツァユン家の本当の子孫となった。
のちに、長女のツェリンヤンゾンはブータンの首相ジンメイドジに嫁ぎ、次女デジチョマはヤォシピンカン・ツェリンドンチュに嫁ぎ、三女のソランチョマはガシュエ・ドンチュに嫁ぎ、四女のツェリンチョマはデム活仏の長男の嫁となり、五女のドンチュチョマはシュエカン・トゥデンニマに嫁いだ。末っ子のピンツォギャンツァンは20世紀80年代にチベット自治区の政協委員となった。
ツァユン・ダサンズァンドィはその後の役人としての運が狂い、最初はチベット軍総司令官を免職され、続いてまたチベット地方政府の主管高官もクビとなった。13世ダライラマのトゥデンギャムツォが円寂した後、ツァユン・ダサンズァンドィは後ろ盾を失い、その後政界で再起不能になり、ただ「テジ」という肩書きだけが残されていた。ところが、金運の方はやはりよく、多くの姻戚関係に頼って、人間関係の寂しさを味わうこともなかった。
チベットの貴族の身なりは平民と違い、生地も贅を尽くし、袖も長く、まったく力仕事をしないことを示しており、肉体労働は召使いのする事であったからだ。だが、召使い出身のダサンズァンドィは出世し、高官、豪商になったことがあるとはいえ、地金そのものは変わらず、依然として野良仕事が好きであった。彼は以前花屋であったこともあり、平日は草花をいじったり、商売をしたり、資産を管理する合間にまた多くの時間をさいて草花、果樹を栽培した。20世紀50年代に、ラサの多くの草花はかつて「ツァユン」という名前が付け加えられていた。例えばツァユンイバラ、ツァユンバラなどがそれである。彼はまたラサの川岸の別荘区に菜園を作り、大金を惜しむことなく何度も山を越えて、国外からガラスを運んできて温室をつくり、さらに外国から野菜の種を導入した。野菜を収穫した後、彼は大急ぎでハナヤサイをプレゼントとしてかごに入れて、使用人に嫁や婿の実家に届けさせる。娘のしゅうとガシュエバは高位高官の人であるとはいえ、従来からこのような植物を目にしたことはなく、手紙で尋ねてきた。手紙の中でダサンズァンドィに次のように語っている――お土産は受け取りました。ありがとうございました。しかし教えを乞うことをお許しください。このお土産はいったい花であるのかそれとも野菜であるのか?もし野菜であるならば、そのつくり方を教えていただけないか、と。ツァユンは手紙を受け取った後、すぐコックさんをその人のところに野菜で料理を作りに行かせた。
1959年、ツァユン・ダサンズァンドィはチベットの上層部の反動グループに追随して武装反乱に参加し、武装反乱本部副司令官となり、3月22日にポタラ宮で捕虜となり、まもなく獄死した。(写真・陳宗烈) |