写真の中のこの宮殿はガンタンラズェ宮と呼ばれ、ロカ地区ラジャリの首領「チチェン」が冬に住む宮殿(一般にラジャリ王府と言われる)。
ラジャリとは誰か?言い伝えによると、西暦10世紀の頃、末代のチベット王ランダマの孫ザロランジェが、ヤルン川の渓谷に戻ってから、地方の貴族の推挙で、ジャリ山に寺院と王宮を築造した。 彼が「ジャリ」の前に「ラ」(神)という字を冠したことは、自分が神聖なトバン・ツァンプの正統の子孫であることを示し、「法王」と自称し、属民たちは彼を「ラジャリ王」と呼んでいた。それから、彼の子孫はここに定住した。20世紀50年代末に至るまで、ラジャリはずっと特殊な地位を保ちつづけた。5世ダライラマの頃、ラジャリ法王は「チチェン」(大座)と封じられた。政府の文書の中ではチチェンがダライラマと面会する時にはひれ伏してあがめることを免除することができる、と記されている。人々は「彼がダライラマより下敷きが1つしか少なくないだけ」と形容した。ラジャリ法王もガシャ(政府)に税金を納める必要はない。歴代のチベット地方政府も従来からこの地区にゾンベン(知事)あるいはその他の官吏を派遣したことはなく、ラジャリ法王が直接管轄区の地方官吏を任命した。 法王がラサに行って事を運ぶたびに、 ガシャ(チベット政府)は官吏を派遣してラサ川の渡し場で送迎し、儀式はたいへん盛大であった。新しいラジャリ法王の王位継承あるいは結婚祝典の際、 ガシャは4級の官階の官吏1人を派遣して祝賀に来た。 清王朝のチベット駐在大臣もよく人を派遣して法王に皇帝の関連政令を伝えるか、あるいは教師を派遣して王室の子弟が国語の漢語を学ぶことを助けた。
この貴族はガシャの中で官職についたことはないが、王府はこの地区の実質的権力を握っていた。王府は法律を制定し、監獄をつくり、刑具をつくり、案件を判決することができた。私はかつて、ラジャリの邸宅の玄関の両側にそれぞれ1本の直径6-7センチ、長さ1メートル以上、虎の皮で包まれた法棒が掛かっていることを目にしたことがある。それは農奴を震え上がらせるためのものである。ラジャリは多数の貴族と同じように年じゅう自分の荘園に住んで酒食遊楽の暮らしをし、非常に贅沢で、別に具体的な実務に口を差し挟むこともなかったが、その腹心に命じて、管理事務室を設立し、属地範囲内のすべての行政、財務、司法および荘園の大小実務を管理させた。ラジャリ法王はロカ地域でサンリ、ギャツァとリュンズなど4つの県を擁し、面積は百ないし二百キロに達し、荘園9319カ所、農奴2000数戸を擁していた。このほか、また直接王室のための手工業作業場15カ所、家庭用奴隷4人を所有していた。(写真・陳宗烈)
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