西蔵(チベット)は中国の南西部に位置する。ここに居住する蔵族(チベット族)の先住民と、遥か紀元前に中原に暮らしていた漢族とは密接な関係にある。その後長い歳月を経て、西蔵高原に散在する多くの部落が徐々に統一され、現在の蔵族を形成した。
唐朝(西暦618~907年)に至り、蔵漢双方は王室間の婚姻・会盟を通じて、政治的には団結・友好の友誼関係、経済・文化的には密接な繋がりを構築し、最終的な統一国家の建設に向けた厚い基盤を固めた。西蔵自治区の区都・拉薩(ラサ)の布達拉(ポタラ)宮には西暦641年に唐朝から蔵族の吐蕃王に嫁いだ文成公主の像が現在も奉られている。大昭(ジョカン)寺前の広場には西暦823年に双方が会盟した際の「唐蕃会盟碑」が残る。
13世紀中葉、西蔵地方は正式に中央政府の行政管轄下に組み込まれた。この後、中国では幾つかの王朝が興亡し、中央政権は繰り返し入れ替わったが、西蔵は常に中央政権の管轄下にあった。元朝皇帝は宣政院を設置し、西蔵地区の軍政の要務を直接管理した。また、西蔵に軍隊を駐屯させ、王子の1人とその子孫に西蔵地区の東部境界の防衛を命じ、西蔵に有事が発生した際にはただちに辺境の鎮圧・防衛に当たらせた。1290年に万戸長(ティ・プン)の1人が反乱を起こすと、元朝中央はこの王子を派遣して反乱を平定した。
1368年、元朝に替わった明朝は、西蔵の管理権を継承し、西蔵の中部に「烏思蔵行都指揮使司」、東部に「朶甘行都指揮使司」を置き、民政を併せ管理させた。西部の阿里(アリ)には別に「俄力思軍民元帥府」を置いた。これらの担当官はすべて中央が任命した。明朝第3代皇帝の成祖(在位1403~1424)は統治を円滑にするため、西蔵各地の宗教指導者に「法王」「王」「潅頂国師」などの称号を授けた。王位継承には皇帝の裁可を要し、使者を遣わし、冊封を得て初めて即位することができた。朝廷の規定により、毎年元旦、王は使者を遣わすか自ら都に赴いて朝賀典礼に参加し、貢ぎ物を献上しなければならなかった。西蔵のあるラマ寺院には当時参拝を義務づけられた「皇帝万歳牌」が今も保存されている。ダライ・ラマとパンチェン・ラマの2大活仏はチベット仏教ゲルク派に属す。ゲルク派は明代に興り、ダライ・ラマ3世はもともとゲルク派の一寺院の住職だった。明朝中央は特例として彼の入貢を許し、1587年に「朶児隻唱」の名を与えた。
1644年、明朝に替わった清朝は西蔵への統治を一層強化した。清朝皇帝は1653年にダライ・ラマ5世を、1713年にパンチェン・ラマ5世を冊封し、これによってダライ・ラマとパンチェン・ラマの封号とチベットにおけるその政治的・宗教的地位が正式に確立された。1719年、清政府は西蔵に軍隊を派遣し、拉薩に3年もの間盤踞していたジュンガル部を駆逐して、西蔵の行政体制の改変に着手した。西蔵の行政機構の機能を改善するため、清朝は何度も「章程」を宣布し、旧制度を改め、新制度を構築した。1793年には「欽定藏内善後章程」全29カ条を宣布した。章程には▽清政府はダライ・ラマとパンチェン・ラマを含む西蔵の各大活仏入滅後の転生霊童を決定する大権を掌握する▽駐蔵大臣は中央政府を代表して西蔵内の問題を管轄する。その地位はダライ・ラマ、パンチェン・ラマと同等である▽西蔵の文武官僚の等級・定数・昇補手続を決定する▽西蔵に3000人の正規蔵軍を設立する。このほか内地から西蔵各地に将兵1400人余りを駐屯させる▽西蔵の渉外問題はすべて駐蔵大臣が全権処理する▽犯罪者の処罰には駐蔵大臣の許可が必要だ。1911年の秋、中国内地で辛亥革命が勃発し、中華民国が建国された。1912年3月に中華民国南京臨時参議院が公布した民国初の憲法「中華民国臨時約法」は、西蔵は中華民国の領土の一部であると明確に定めている。1927年に中国国民党は南京国民政府を樹立。1931年の国民会議には、ダライ・ラマ13世とパンチェン・ラマ9世も代表を派遣して正式に参加した。この国民会議で制定された「中華民国訓政時期約法」総綱第1条は西蔵を中華民国の領土と定めている。歴史的制度により、ダライ・ラマ、パンチェン・ラマ、その他大活仏は中央政府の裁可と冊封を得て初めて、西蔵地方における政治・宗教上の合法的な地位を得る。止まぬ外患と頻発する内乱に中央政府が弱体化していた民国期でも、ダライ・ラマとパンチェン・ラマは中央政府の冊封を引き続き受けていた。ダライとパンチェンは祖国統一の維持と中央政府への支持を繰り返し表明していた。
「人民網日本語版」2008年4月21日
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