紀元前から先住民が青海・チベット高原に住んでいた。その後、長い歳月を経て、チベット高原に分散した多くの部落が次第に統一して現在のチベット族となった。
チベット人民は唐代(西暦618~907年)の連年の征戦、唐朝とトバンの和親、宋代(西暦960~1279年)の馬と茶の取り引きと貿易往来、元代(西暦1206~1368年)の版図の統一と民族和睦、明代(西暦1368~1644年)の古道の往復、清代(西暦1644~1911年)のゲルク派扶助と領土強固から近現代の風雲の変化まで経歴した。
トバン王朝時期
7世紀の初め、強大な唐朝が中原地区で樹立され、それによって同地区の300余年にわたった混乱・分裂の局面に終止符が打たれた。それと同時に、チベット族の民族英雄ソンツェン・ガンポは10余の部落を併合して、チベット高原の最初の統一した政権――トバン王朝を樹立した。ソンツェン・ガンポは西暦641年に唐朝の王女文成公主を妻として迎え、唐朝と政治、経済、文化などの面できわめて友好的な関係を保ち、トバンと唐朝が200余年も頻繁に行き来する「甥と舅のよしみ」の関係を樹立した。
西暦821年、トバン王のチラブパポは3回も人員を長安に派遣して盟約を行うことを願い出た。唐の穆宗は官吏に盟約を行うために来たトバンの官吏と長安の西郊外で盛大な会盟儀式を行うよう宰相らに命じた。翌年、唐朝とトバンはラサの東郊外で盟約を行った。会盟が唐の長慶元年(西暦822年)と二年(西暦823年)に行われたため、歴史上「長慶会盟」と呼ばれている。会盟の双方は歴史上の「和が同じに一家である」という甥と舅のよしみを再確認し、今後の「国が一つである」について協議した。この会盟の内容を記載した石刻「唐番会盟碑」は3つあり、その一つはサラ市のチョカン寺の前に立っている。
西暦842年、トバン王朝は王室の内輪もめと部族の間、辺境守備将軍の間の混戦のために分裂、瓦解し、互いに隷属しない地方勢力がたくさん現れた。これらの勢力はそれぞれ一地方を陣取って互いに征伐しあい、戦争は400余年も続き、そのため故郷を離れ、今日の甘粛、青海、四川、雲南などの地区に分散して行ったトバンの人は少なくなかった。チベット高原で暮しているトバンの各部族は、トバン王朝が滅亡した後の3世紀余りの間に割拠して自立し、互いに討伐しあい、経済と文化の発展をひどく妨害した。
元朝時期(1271-1368年)
13世紀初め、蒙古族の指導者ジンギス汗は中国北部で蒙古汗国を樹立した。1247年、チベットのサキャ派高僧バンチダ・ゴンガギェルツェンは蒙古汗国の王子クタンと涼州(今の甘粛省武威市)でチベットの諸部族が蒙古汗国に帰順し、その定めた地方行政制度の内容を受け入れることを協議、決定し、サキャ地方政権を樹立した。1271年、蒙古汗の政権は国号を元と定め、1279年に全国を統一し、統一の中央政権を樹立した。こうして、チベットはついに元朝の中央政府が直接管轄する行政区域となった。
チベット地方の歴史的伝統、社会状況、自然地理条件、民族と宗教信仰など諸方面の特徴にかんがみて、元朝はチベットの行政管理に対し若干の特殊な政策と措置をとった。
第1、西暦1270年、元世祖のフビライはチベットの宗教首領、サキャ派の僧侶パスパを帝師に冊封した。これは中国の歴史上初めて設立された僧官の最高職務であり、その後それが制度となり、帝師という職は皇帝が直接任命する中央政府の高官となり、全国の仏教を統率し、チベットの地方事務をも管理した。
第2、元朝は建国初期に、チベット地方の軍事、政治事務と全国の仏教事務を専門に管理する釈教総制院(西暦1288年に宣政院に改称した)を設置した。宣政院使(主管の官吏)は一般に丞相が兼任し、副使は帝師の推薦した僧侶が担当した。これは中国の歴史上初めて設立されたチベットの事務を専門に管理する中央機構である。
第3、チベット地方の行政区域を区画し、各クラスの官吏を設置し、帝師によって管轄される。
13世紀中葉にチベット地方が正式に元朝の版図に入れられたあと、中国では数代の王朝が興廃し、中央政権がたびたび交替したが、チベットはずっと中央政府の管轄下に置かれていた。
明朝時期(1368-1644年)
1368年、明朝が元朝に代わって中国を統治してから、中央政府の設立したチベット事務を専門に管理する機構――宣政院およびチベットの僧侶を帝師に冊封する制度を撤廃し、最高級の僧官を「法王」と呼ぶ一連の独特な特色をもつ僧官制度を確立した。法王は元朝の帝師と違って、北京に駐在せず、全国の教務を管理する職権がなく、固定した領地もなく、等級は栄誉の性質に属し、高低の別はあるが、互いに統轄せず、ともに政務を管理しなかった。法王の下の僧官は「王」と称し、彼らはそれぞれ領地があり、それぞれ一定の区域を統轄したが、互いに隷属せず、直接中央政府の命令に従った。
チベット地方に対する明朝中央の管理は、元朝の方法を踏襲し、前後して烏思蔵、朵甘という2つの「衛指揮使司」と「俄力思軍民元帥府」を設置し、それぞれ前チベット、後チベット、チャムド、アリ地区の軍事と政治事務を管理させた。
清朝時期(1644-1911年)
1644年、清朝は明朝に取って代わってから、チベット地方の主権行使に対する法律と制度の保証を確保するため、一連の厳密で効果的なチベット管理の法規と制度を確立し、いっそう著しい成果をあげた。
第1、チベットの行政区域を法律で定めた。清朝の中央政府は全国の行政区域を区画した時、チベットの行政区域を法律で定め、法規の形でチベットと隣接する雲南、四川、青海、新疆の行政区域の境界を画定した。チベット(当時は「衛蔵」とも称された)の行政区域はいまのチベット自治区の管轄区域に相当する。
第2、チベットの政治体制、行政管理体制、地方政権の組織形態を決定した。清朝が1793年に公布した「欽定チベット規約」と清朝の行政法規集をより集めて編さんした『大清会典』は、チベットでは、ダライとパンチェンがそれぞれ前チベット、後チベットの宗教と部分的な行政事務を管理し、互いに隷属せず、駐蔵大臣がチベット全体を統轄すると明確に規定している。
第3、チベットの宗教首領を冊封した。西暦1653年、清朝の中央政府は第5世ダライを「西天大善自在仏所領天下釈教普通瓦赤喇恒喇ダライラマ」に冊封し、西暦1713年、第5世パンチェンを「班禅額爾徳尼(パンチェン・オルドニ)」に冊封した。その後、歴代のダライとパンチェンは中央政府の正式な冊封を経てはじめて合法的であることが歴史的制度となった。
第4、宗教首領が権力で私利をはかるかあるいは勢力を拡大するのを防ぐため、清朝の中央政府は西暦1793年に金瓶掣簽(金瓶を使ってくじ引きをする)制度を確立して、以前にダライ、パンチェンあるいは大ラマ僧が後継者の候補者を自ら決定する弊害を取り除き、駐蔵大臣の監督・主宰の下で、金瓶掣簽を通じてダライ、パンチェンあるいは大ラマ僧の継承者の対象を選定し、中央政府に報告して認可を得てからはじめて合法的な継承者になれるように改めた。これはチベットの宗教に対し行政管理を強化する清朝中央政府の重要な措置であり、チベットに対する完全な主権行使をも体現している。
中華民国時期(1912-1949年)
1911年、中国で辛亥革命が勃発し、翌年、漢族、満州族、蒙古族、回族、チベット族などの民族が一体となる中華民国が樹立された。中華民国の期間に中央政権は頻繁に交替したが、チベットに対する歴代の中央政府の基本的政策は、終始国家の統一、主権、領土保全を堅持した。
第1、政府の宣言と立法などの形式を利用して、チベットに対する国家の主権を守った。1912年3月11日、孫文が主宰して制定、公布した「中華民国暫定憲法」「総則」第三条は、チベットは中華民国の22の行政区域の一つであると規定している。これは「臨時憲法」の形で、法律上からチベット地方に対する民国政府の主権を規定している。その後に公布した「憲法」のチベット地方に関する規定の基本的精神と核心的内容は、いずれもチベット地方が中国領土の不可分の構成部分であることとチベットに対する中央政府の主権を強調している。
第2、チベット地方の事務を管理する中央機構─―蒙蔵事務局と蒙蔵委員会を設立した。中華民国は1912年にチベットと蒙古地方の事務を主管する中央機関として、国務院に直属する蒙蔵事務局を設立した。蒙蔵事務局は1914年に蒙蔵院に改められた。1927年に南京に遷都し、南京国民政府が成立してから、蒙蔵院に対し制度改革を行い、蒙蔵委員会を正式に設立した。第9世パンチェン、第13世ダライとチベット地方政府の北京駐在代表ゴンジョズォンニ、ツォンギャフトクト、ヒヤンギャムツォ大師らは、みな蒙蔵委員会に参加し、著名な仏教大師のヒヤンギャムツォは蒙蔵委員会副委員長に就任したこともある。
第3、ダライとパンチェンを冊封し、その霊童転生と坐床式典を主宰した。民国初年、清朝に名前と号の使用を停止され、インドに亡命した第13世ダライは民国政府に帰国の意向を表明した。この点を考えて、袁世凱は1912年10月28日に大総統命令を発し、ダライ・ラマの名前と号を回復した。間もなく、第13世ダライはインドからチベットに帰還した。チベット内部の矛盾を緩和し、第9世パンチェンの国家統一擁護への貢献を表彰するため、袁世凱はまた1913年4月1日に「大総統パンチェン冊封命令」を発した。
1933年12月、第13世ダライが円寂し、チベット地方当局は歴史的慣例に従って中央政府に報告し、国民政府は第13世ダライに「護国弘化広慈円覚大師」の号を追贈し、蒙蔵委員会の黄慕松委員長をチベットに派遣して弔問させた。1938年、摂政のラチェン活仏の主宰の下で、宗教のルールに基づいて、青海で第13世ダライの転生霊童ラムデンチュを探し訪ねた。1940年2月5日、国民政府は命令を出し、「青海の霊童ラムデンチュが抽籤を免除し、第14世ダライラマに就任することを特別認可した」。中央政府特派代表の呉忠信氏とチベット摂政のラチェン活仏は第14世ダライ・ラマの坐床式典を共に主宰した。1937年12月、第9世パンチェンはチベットに帰る途中、青海で円寂した。国民政府は「護国宣化広慧円覚大師」の号を追贈し、考試院の戴伝賢院長をガンズェに派遣して弔問させた。1949年初め、国民政府の特使は青海のタル寺で行われた第9世パンチェンの転生霊童の祝典に参加し、チタンを第10世パンチェンに選ぶことを政府が保証すると発表した。8月、蒙蔵委員会の関吉玉委員長は国民政府の特使として、青海に赴いて第10世パンチェンの坐床式典を主宰した。
第4、チベット上層部の僧侶と俗人を国家管理に参加させた。民国時期の歴代の国会、国民政府時期に開かれた毎回の国民大会はいずれもチベット地方の代表が参加した。例えば、1946年11月15日、国民大会が南京で開幕し、12月25日に閉会した。この大会は憲法を制定するために開かれたもので、一般には「憲法制定国民大会」と称されている。この会議にはトタンサンピ、ジジンメら17人のチベット代表が出席した。
中華人民共和国時期(1949年に成立)
1949年10月1日、中華人民共和国が成立した。
1951年の平和解放 中華人民共和国の成立後、チベット仏教ゲルクパ(黄教)の2大活仏家系の一つである第10世パンチェン・オルドニ・チュキ・ギェルツェンは毛沢東主席、朱徳総司令官に打電し、中央人民政府を擁護し、チベットの早期解放を希望するという強い願いを示した。1949年11月23日、毛沢東主席、朱徳総司令官は第10世パンチェン・オルドニ・チュキ・ギェルツェンの10月1日の電報に返電を出した。その後、中央人民政府は何度もチベット地方当局に対しチベットを平和的に解放するよう呼びかけると同時に、さまざまなルートを通じて彼らに働きかけた。
しかし、チベット地方政府のダザ摂政をかしらとする帝国主義寄りの分離主義勢力は、チャムドと金沙江の西岸に8000人のチベット軍主力と民兵を配置し、武力でチベット平和解放の道をふさごうとした。人民解放軍は10月24日にチャムドを解放した。中国共産党中央と中央人民政府はチベット平和解放の方針を堅持し、チベット地方当局が交渉の代表を北京に派遣するのを待つため、前進を停止するよう解放軍に命令した。同時に、西南軍政委員会と西南軍区は共同でチベット語と漢語で「チベット解放公約十章」を発表した。中央の度重なる働きかけと政策の感化を受け、1951年1月、第14世ダライ・ラマとチベット地方政府は平和交渉をしたいという願いを示した。
1951年4月29日、中央人民政府とチベット地方政府の全権代表は北京で交渉を始め、すべての重要な問題について合意に達した後、1951年5月23日、北京中南海の勤政殿で「中央人民政府とチベット地方政府のチベット平和解放の方法に関する取り決め」(17カ条取り決めとも称される)の調印式が厳かに行われた。調印式の後、ダライ・ラマは毛沢東主席に打電し、チベット平和解放の方法に関する取り決めに対し、「チベット地方政府とチベット族の僧侶と俗人は一致して擁護するとともに、毛主席と中央人民政府の指導の下で、人民解放軍のチベット進駐部隊に積極的に協力して国防を強固にし、帝国主義勢力をチベットから追い出し、祖国の領土と主権の統一を保護する」と述べた。パンチェン・オルドニも中央人民政府の毛沢東主席に打電し、「17カ条取り決め」を擁護し、祖国の主権の統一を守る決意を表明した。
取り決めに基づき、1951年10月26日、中国人民解放軍チベット進駐部隊は勝利裏にラサに到着し、チベット地方政府の役人および僧侶と俗人2万余人から熱烈な歓迎を受けた。つづいて、人民解放軍のチベット進駐部隊はまた前後してナッチュ、アリ、ザユィ、ギャンズェ、シガズェ、ツォモなど各地の国境警備要所に到着した。これで、チベットは平和に解放された。
1954年、ダライ・ラマ、パンチェン・オルドニは一緒に北京に行って中華人民共和国第1期全国人民代表大会に参加した。この会議で、ダライ・ラマは全国人民代表大会常務委員会副委員長に、パンチェン・オルドニは全国人民代表大会常務委員会委員に選ばれた。
1959年の民主改革 平和解放後のチベットは依然として過去の制度を保留した。社会の進歩とチベット人民の生活改善のため、チベットで民主改革をやるかどうかは確かに中央政府が非常に関心をもつ問題の一つであった。改革を実行する条件がまだ整っていないため、1957年2月17日、毛沢東主席は最高国務会議で行った「人民内部の矛盾を正しく処理する問題について」という報告の中で、チベットに対し「6年間改革を行わない」方針についてはっきり述べた。この方針は実際にはチベット上層部に対するいま一つの譲歩であり、その目的は彼らの中の一部の人が自覚するのを待って、平和的改革を行う目標を実現させることにあった。
チベット上層部の反動グループは1959年3月10日に公然と「17カ条取り決め」を破棄して「チベット独立」を宣言し、チベット軍に人民解放軍チベット軍区と中央政府のチベット駐在機関を包囲させ、3月20日の夜明けにこれらの機関に対し全面的攻撃を起こした。中央政府は祖国の統一を守るため、チベット反乱を平定する命令を下し、3月28日にはまた、多数のメンバーが反乱に参加した元チベット地方政府を解散する命令を発し、チベット自治区準備委員会がチベット地方政府の職権を行使すると発表した。チベットは反乱を平定し、改革を行う新たな段階に入った。
チベット自治区準備委員会は1959年7月中旬に「民主改革に関する決議」を可決し、反乱を徹底的に平定し、大衆を十分に動員し、全自治区で民主改革を実行することを決定した。民主改革の第一段階は、反乱に反対し、「ウラ(烏拉)労役(農奴が農奴主に無償労役を提供する)制度に反対し、奴隷の酷使に反対し、小作料・利息引き下げ運動を繰り広げた。目覚めた農奴と奴隷は自らの指導機構の農民協会をつくり、自らの権力中心を形成した。その後の数カ月間に、民主改革が行われる広大な地区であまねく農民協会をつくって、小作料・利息引き下げ活動を指導した。
政策に基づき、反乱を平定する際、反乱に加わった領主の土地に対しては「耕す者が収穫する」を実行し、反乱に参加しなかった領主とその代理人の土地に対しては、「二八減租」(領主が収穫の二割、小作人が八割をとる)を実行し、1958年以前に三大領主から借りたすべての債務は帳消しにし、1959年に反乱に参加しなかった領主から借りた債務に対しては、その利息を月1%に引き下げた。「二八減租」と旧債務帳消しは大きな成果をあげ、1959年から1960年の民主改革が基本的に終わった時までの統計によると、全自治区の高利貸の帳消し金額は食糧に換算すると約40余万トンに達した。こうして、農奴を束縛していた重いカセが根本から取り除かれた。
1959年9月中下旬に開かれた自治区準備委員会第3回全体会議は、「封建農奴主の土地所有制を廃止し、農民の土地所有制を実行する決議」を可決し、百万の農奴の正義の要求を満たし、封建農奴主の土地所有制を廃止し、農民の土地所有制を実行することを決定した。
農業地区の土地改革は大体1959年の冬から1960年の春にかけて行われた。まずは政策に基づき、反乱に加わった農奴主とその代理人の土地とその他の生産手段を没収し、反乱に参加しなかった農奴主とその代理人の余分な土地、家畜(農村に限られる)、家屋と農具に対しては、買い上げを実行した。1960年末の全自治区が土地改革を基本的に完成した時の統計によると、農奴と奴隷に分け与えた土地は約18万6000ヘクタール、一人当たりは0.23ヘクタールに達した。
政策に基づいて、反乱に参加しなかった農奴主とその代理人の余分な土地、家畜、家屋と農具に対しては買い上げを実行し、買い上げた耕地は6万余ヘクタール、家畜は82万頭、農具は2万点、家屋は6万4200棟に達した。これらのものはすべて中等の時価で値踏みし、政府が8ないし13年内に買上げ金を払った。1961年9月までに、全自治区は2000余戸に買い上げ証明書を発給し、第1期の買上げ金を支払った。反乱に参加しなかった愛国進歩人士に対しては、それぞれ適切な仕事を与え、その中には自治区準備委員会の指導的職務を担当する人もいた。
1961年年末、民主改革の基本的任務が達成された。民主改革は立ち遅れた反動的封建農奴制を徹底的に覆し、百万の農奴を農奴主の束縛と抑圧から解放し、再び人となる権利を獲得させ、チベットの広範な人民の人権状況を根本から改め、チベット社会の発展のために道を切り開いた。
1965年のチベット自治区の成立 チベットは憲法に基づいて民族区域自治を実行し、国は法によって、チベットの各民族の人々が平等に国家と地方の事務管理に参与する政治的権利、特にチベット族の人々が自主的に所在地区と自民族の事務を管理する自治的権利を保障している。これらの権利は政治、経済、文化と社会発展の各方面に及んでいる。チベットの具体的な歴史的状況に基づき、政治、経済、宗教、文化およびその他各面の要素を考慮に入れて、民族区域自治を実行する時、国内のその他の民族地区と異なる特殊で弾力的な方法がとられた。
1955年3月9日、周恩来総理は自ら国務院第7回拡大会議を主宰して、「チベット自治区準備委員会成立に関する決定」を審議、可決した。同「決定」は「チベット自治区準備委員会はチベット自治区の成立を準備する政権の性質をもつ機関であり、国務院の指導を受ける。その主な任務は中国の憲法の規定およびチベット平和解放の方法に関する取り決めとチベットの具体的な状況に基づき、チベットで区域自治を実行する準備を進めることにある」と指摘している。国務院はまた、ダライ・ラマを同準備委員会の主任委員、パンチェン・オルドニを第1副主任委員、張国華を第2副主任委員に任命することを決定した。
1956年4月22日、チベット自治区準備委員会成立大会は落成したばかりのラサ大講堂で盛大に開かれ、ダライ・ラマはチベット自治区準備委員会の主任委員に就任した。
1959年、チベットは反乱を平定し、民主改革を行う中で、封建農奴制度を廃止し、百万の農奴と奴隷は解放され、農奴主の個人財産として売買、交換されたり、債務の弁済に当てられたり、農奴主に強制的に働かされたりすることがなくなり、人身の自由を獲得して社会の主人公となった。各クラスの地方人民政権が樹立された。チベットの実状から出発して、1959年7月、自治区準備委員会は「チベット地方の各県・区・郷農民協会の組織規約」を可決し、区、郷二クラスの農民協会が末端政権の職権を代行することを定めた。1960年4月までに、上記の7専員公署、1市および72県の人民政府が残らず樹立され、また20の区人民政府と300の郷人民政府も樹立された。1962年3月、準備委員会は「全自治区で末端選挙活動を展開することに関する指示(草案)」を公布した。1965年7月と8月には、全自治区の郷、県の選挙活動が基本的に終わり、1359の郷、鎮で末端選挙が行われ、ほかに567の郷、鎮では人民代表大会の職権を代行する人民代表会議が開かれた。この二つの数字はチベット全自治区の郷、鎮総数の92%を占め、貧しい農奴と奴隷が圧倒的多数を占める末端の人民政権が樹立された。全自治区では54の県が第1回人民代表会議を開き、県長と副県長を選出し、県人民委員会を成立させた。同時に自治区人民代表大会に出席する301人の代表を選出した。
これを踏まえて、中央政府の認可を得て、チベット自治区第1期人民代表大会第1回会議は1965年9月1日から9日までラサで厳かに開かれ、チベット自治区が正式に成立し、アペイ・アワンジンメイ氏が自治区初代主席に就任した。
「北京週報日本語版資料」 2008年3月
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