劉育新氏は日本での留学経験があったため、文革中はつらい目にあったが、同氏はかえって中日友好にこだわり続け、中日関係の将来に自信を持っていた。彼は、中日関係の正常化が生易しいことではないことをますます強く感じ、中日間の長期的友好のためには子々孫々にわたってバトンタッチしていく必要があると考え、常に後に続く世代が中日友好のために橋渡しの役割を発揮できるよう励ましてきた。
NHK自転車コンクールに参加した刘幸宇氏(右一)と日本と台湾の学生たち
中日関係が正常化される前の1964年、早くも彼は次男の劉光宇氏が北京大学東方語言文学部の日本語専攻課程を受験するよう励ました。劉光宇氏は北京大学卒業後、吉林省外事弁公室や吉林大学日本研究所、東北師範大学外国語学部で中日交流と日本文学の研究および日本語教育に携わるとともに、日本映画『男はつらいよ 口笛を吹く寅次郎』を翻訳し、日本の著名な映画を中国の銀幕の上に持ち込んだ。さらに、1987年および1996年には、それぞれ客員研究員と客員教授の肩書きで関西学院大学において日本近現代文学研究に従事し、数多くの日本の文学作品を翻訳し、現在は中国作家協会の会員となっている。
1978年、劉育新氏の激励のもと、四男の劉幸宇氏と三女の劉光赤氏がそれぞれ吉林大学、東北師範大学で日本語を専攻した。彼らは卒業後、幸宇氏は北京の国家機関で中日科学技術交流に従事し、光赤氏は長春の大学で日本語教育に携わった。幸宇氏は1989年、日本に留学し、1992年に修士課程を修了後、日本の商社で中日の経済交流の仕事に就き、1994年から学校法人神戸学院で中日の大学間交流や中国人留学生の指導業務に従事するとともに中国語を教えてきた。10数年来、幸宇氏は中日両国の教育、科学技術、著名人などをテーマに両国の新聞、雑誌、学術誌に20篇以上の文章を発表し、さらに徐悲鴻の研究者として名高い松谷省三氏に協力して中日文化交流を展開している。光赤氏は1985年に日本に移り住んでからずっと大学で中国語を教え、中国文化を伝えてきた。現在は上智大学、明治大学などで講師として勤務している。20数年来、彼女は日本の中国語教育の教壇に立ち、多くの中国語の人材を育成するとともに、辞典や教材の編纂にかかわったり中国語教育の研究活動を行ったりしている。さらに、彼女は在日中国人としてたびたび国際友好交流の座談会に出席したり、取材を受けたりもしている。
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