さらに、1992年4月には、華東政法学院から名誉教授という栄えある称号も受けている。
日中両国が子々孫々に至るまで友好的に付き合っていくために、倉田氏は中国研修セミナーの主催を提案していたが、1992年9月に初めての同セミナーを実施し、60名の学生が大陸に赴き、中国文化を体験した。それ以来、神戸学院大学のこの中国研修セミナーはずっと続いている。1993年と1995年には、彼自身もゼミの学生を率いて訪中した。また、中国人留学生が順調に入国できるよう、彼は数多くの留学生の身元保証人になったり、奨学金や留学生寮の充実に向けて尽力したりしてきた。
その後、1996年神戸学院女子短期大学学長に就任すると、直ちに中国人留学生の受け入れに着手した。その後10年間に亘り、同短期大学は400余名の留学生を受け入れている。
日中法曹界の交流活動においても数々の論文を発表するとともに中国法律界の新しい動向を紹介する講演活動を行ってきた。
このように、倉田氏は熱心に日中両国の間で有形無形の絆を強くしてきた。しかし、形ある橋梁の必要性がより切実であることは言うまでもない。偶然の一致かも知れないが、彼が上海に赴き交流協定に調印した1988年、当時の建設省(現国土交通省)は一大国家プロジェクトとして大学からそう遠くない明石海峡に巨大な吊橋の架設工事を始めた。倉田氏は常にバルコニーから工事の進捗風景を眺めていた。1995年1月、神戸では世界を驚愕させた阪神・淡路大震災が発生し、20数万棟の建物が損壊した。その震源地は吊橋の主塔から1キロしか離れていない深い地層であったが、このような大地震に見舞われても、主塔は依然として高く聳え立っている。そのため、倉田氏は時々中国の友人に架橋史上にないこの奇跡を語り、「長崎と上海との間にこのような大橋ができたらどんなにか素晴らしいことでしょう!」と感慨深げに言った。
1998年の春、明石海峡大橋が竣工して間もなく、倉田氏は雨の中上海交通大学学長一行を伴って大橋を視察した。それ以降、中国視察団が神戸を訪れる度に、彼は常に感慨深げに大橋を案内した。彼は時々大橋の袂を散策する。そこは風光明媚というだけでなく、彼の敬愛する中国辛亥革命の指導者孫文の記念館「移情閣」がある。彼は目前の情景に接して感慨にひたり、日中両国の間に、激しい嵐にも耐え得る友愛関係の実現を期待しているに違いない。
「老驥伏栃,志在千里」(優れた馬は老いても一日千里を奔ることを志す)という『三国志』曹操の言葉通り、倉田氏は81才になった今も活力に溢れ、日中交流及び様々な社会活動に従事し続けている。
(筆者は日本在住の中国人。本誌の読者で、今回この一文を特に寄せてくださった)
「北京週報日本語版」 2008年12月22日 |