劉幸宇
一衣帯水の地にある日中両国間では、昔から多数の有識者が友好交流の架け橋となってきた。日本私法学会理事であった著名な法学者で、教育家でもある倉田彣士弁護士もその一人である。
1926年、彼は奈良県で生まれた。中国古典文学を愛読する父親の薫陶を受け、幼い時から漢詩を好んだ。1943年4月、中国文化への憧れを胸に抱いて、上海にある東亜同文書院大学に入学し、日本文化の源流である中国文化に強烈なカルチャーショックを受けたという。
歳月は流れ、42年後の1986年に、倉田氏は神戸学院大学の学長に任ぜられた。入学式と卒業式の式辞では、『論語』と漢詩を引用し、感無量の面持ちで上海での留学生活を振り返り、「私は上海が好きです。上海は私の第二の故郷です」と述べるのが常であった。
同氏の訪中歴は25回余りにのぼる。短ければ3~5日間、長ければ一ヶ月ほど滞在することもあった。彼は上海に行くことを「帰省」と言い、また、自らを「老上海」(上海を熟知する地元の人)と称している。上海を知り尽くし、何処に行っても、半世紀前の町の名前と老舗をすらすらと暗唱することができた。また、上海弁が堪能で、夢の中ですら中国語を話すほどで、その名に恥じない中国通である。
1986年7月、倉田氏は神戸学院大学学長に就任後、「神戸学院大学学報」で「日中両国は一衣帯水の隣邦であり、友好交流の歴史が長い。まず、中国の大学との交流計画を立てるべきである」と表明した。そして、同年上海国際問題研究所日本研究室の学者を客員教授として招聘し、また、上海の学者を薬学部研究員として迎え入れた。
1990年夏、上海交通大学は両大学交流への貢献を表彰するため、倉田氏に対し顧問教授の称号を授与することを決定した。同年10月末、夫人と長男一家とともに上海を訪れ、授与式に出席し、初めて中国で講義を行なった。その後の10年間に、上海の高等教育機関及び天津社会科学院等で10数回の講演を行ない、さらに上海市普陀区少年宮に寄付を二度している。
|