1994年に世界文化遺産に指定された。中国の古代祠廟、陵墓、役所建築物の中でも、その優れた建築の風格、整然とした配置などから記念碑的意義のある特殊な地位を占め、中国と東方文化圏において、記念建築物や庭園、人々の住居などに対しても大きな影響を及ぼしている。今の孔子廟、孔府と孔林は、明・清の時代に完成したもので、当時の中国の最も先進的な技術を代表するものである。
孔子廟 至聖廟ともいい、曲阜市内にあり、歴代孔子を祭ってきたところである。孔子廟は封建時代に儒教思想が占めた大きな地位の象徴であり、廟の門、坊、殿、堂の名と額に書かれた言葉はいずれも儒教の古典から出たもので、孔子と儒教思想の学説に対する称賛に満ちたものである。その建物は中国の伝統的木造建築物の特色を存分に具現したもので、世界の東方に聳える崇高な文化と芸術の建築物である。廟は紀元前478年、孔子の没後2年目から建て始められた。当時は、孔子の旧居の前に廟堂を3間建て、孔子の衣服、車、書籍を陳列し、年ごとにそれを祭る行事が催された。その後、孔子の影響の拡大と歴代の統治者が孔子を尊びあがめたことにより、孔子廟の規模も絶えず拡大した。今の孔子廟は南北の長さが約1キロで、宮殿の建築様式を模倣しており、三道の配置、九つの庭園が南北を貫く中軸線上にあり、左右対称の形で並べられている。建築物全体の配置が合理的で、密度も適切で、色が美しく、雄大な気勢を誇っている。主な建築物は、3殿、1閣、1壇、すなわち大成殿、寝殿、聖跡殿、奎文閣、杏壇である。大成殿の中には竜の浮彫りのある大きな石柱が10本あり、ずば抜けた彫刻の技術をうかがうことができる。大成殿の前にある杏壇は、かつて孔子が講義をしたところで、中国の一番早い時代の演壇と言ってもよい。
孔子廟には歴代の石碑彫刻が1000余りもあり、歴代の政治、思想、文化および孔子廟の歴史を研究するための貴重な資料であり、中国の書道芸術の宝でもある。廟内にはまた大量の石刻芸術品も保存されており、特に漢代の画像石、聖跡図の石刻と明、清代の竜が彫刻された石柱が最も有名である。孔子廟に入ると、視野が広く開けると同時に、魂も洗礼を受け、何かに打たれたような感じになる。
孔府 正式には「衍聖公府」といい、西は孔子廟と隣接し、孔子の歴代の子孫が執務し居住した邸宅である。これは中国の歴史で最も長く続いた封建貴族の荘園であり、中国封建社会の典型的な建物でもある。漢の時代から、孔子は歴代の王朝に尊びあがめられ、その子孫も何度も官に封ぜられた。1055年に宋の仁宗が孔子の第46代の子孫を衍聖公に封じてから、孔子の子孫はこれを民国の時代に至るまで約880年32代踏襲し続けた。孔府は1377年からつくられ始め、九つの庭園、三道の配置で、中央部は役所、後ろは内庭、最も奥は庭園で、北京の故宮に次ぐ貴族の邸宅であり、「天下第一の邸宅」と称されてきた。邸宅の中には明、清の時代の文書書類が秘蔵されており、それは孔府の400余年来のさまざまな行事の記録でもあり、合計6万件余りもあり、中国で最も数が多く、時代的にも最も古い私人の家庭の書類で、中国の明、清時代の経済と文化を研究する面でも重要な価値がある。
孔林 中国の歴史上、最も古く、最も規模が大きく、最も完ぺきに保存されている一族の専用墓地であり、中国唯一の木と石でつくられた大墓地でもある。孔林は曲阜の北門外にあり、宣聖林、至聖林ともいい、孔子とその子孫の専用墓地で、敷地面積は200万平方メートルに達する。漢代から、孔子の子孫には墓碑が立てられ、いまでは漢、宋、金、元、明、清ひいては民国期に至るまでの歴代の墓碑が4000余りもあり、中国で数の最も多い碑林である。樹林内には古い槐(えんじゅ)とコノテガシワの木と草が青々と茂っている。孔林は墓葬、建築物、石刻、碑刻を一体に集めた屋外博物館であり、天然植物園でもある。
「北京週報日本語版」2007年12月27日 |