林国本
中国における改革・開放の初期のこと。大量の農村の労働力がどんどんと都市に流れ込んだ。これは中国の大都市の住民にとっても、まったく新しい出来事で、一種の「逆カルチャーショック」にひとしいものであった。国外の評論家諸氏もこれをネタに「人口の盲目的大移動」として、「盲流」というマイナス・イメージをもつ新用語で表現しつづけた。
しかし、こういうことはスケールこそ違うが、日本やアメリカでもかつては起こったことであり、長期的視野でとらえればごく自然なことなのである。
私たちが青少年時代に見たアメリカ映画「駅馬車」などの西部劇は、アメリカの近現代史における人口の大移動をテーマとしたもので、一時、北京のカラオケのリクエスト曲で上位を占めていた日本のうた「北国の春」なども、日本の農村地帯から大都会に出稼ぎに来ていた人たちの望郷の思いをテーマとしたものと言ってもよい。どこの国にもこういう過程があったのだ。ただ、中国は七億、八億の農村人口を抱える国ということもあって、そのうち、若年労働力が大都市に移動することになり、さらに交通インフラの整備の遅れが重なり、余計、それが深刻視されることになったようだ。
ところが、それに対応するための正しい政策措置、「農民工」自身の進歩、成長により、そのプラスの側面も見えてくるようになった。
今をときめく、北京のオリンピック施設、北京地下鉄の建設、道路整備、数多くの高層ビルも、みんなこの人たちの汗の結晶と言ってもよい。そして、この人たちの多くも、こうしたプロジェクト建設の中で、熟練工へと成長していたのだ。
さいきん、後輩たちの推挙で、あるビッグ・プロジェクトに参加させてもらったが、そのときの宿泊施設のウェートレスさんたちのほとんどは、甘粛省など西部地域から募集した人たちで、一定のトレーニングを経たのち、こうした職場に配置されたそうだが、なかなかのレベルに達していて、感心した。
管理者たちの話によると、この人たちはやがて故里に帰ると、故里の県などのホテルでなんらかの管理職につき、十数人かそれ以上の人たちのリーダー格となって働くことになるそうだ。よく日本やアメリカに留学した人たちが、留学する前はまだ未熟な青年であったのに帰国後はいろいろな大会社や大学、政府機構で管理職について、肩で風を切るような姿で仕事をしているのと、レベルは違うが本質的には同じようなもの。
また、中国の華南地区に「出稼ぎ」に行っていた若者たちも数年後に技術を見につけ、バーゲニング・パワーを発揮するようになり、経営者を相手に賃上げの交渉をやることを覚え、適当と思われる額の給料がもらえないと、他の地方へまた移動して「所得倍増」を実現していることもよくマスコミの一角で報道されている。
「盲流」と言われていた人たちが、近代化の中堅として育ってきたのである。私も蘭州に行ったことがあるが、どうも私が頭に描いていた西部の町のイメージとはかなり違うように感じた。北京にある外資系のデパートもちゃんとあったし、かなり繁盛していて北京と同じような手法でバーゲンセールもやっていた。
さらに、リストラされた人がたくさんいると言われている中国東北地方の町にも、「ルイ・ビトン」、「バレンチーノ」といったブランド品を売るショップがあるし、それも決して閑古鳥が鳴いているような様子ではなかった。
こうしたことから、私は中国のことを観察するには長期的視野が不可欠ではないか、とつくづく感じている。
政策措置さえ正しければ、貧困のイメージと重ねて見られていた中国の西部が近代化していくことは、決して夢物語ではない、と思うことになった昨今である。さいきんは、出稼ぎに行っていた人たちの中で、故里の県の中心部に精米所をつくったり、製材所をつくったりして、地元の「テークオフ」の力となっているニュースもよく目にする。かつて「盲流」と言われた人たちは、地元の経済の底上げに貢献する力となっているケースも出てきているのである。
「北京週報日本語版」2007年12月25日 |