12月7日午前、私は南京市の南湖南苑新村に住む生存者、穆喜福氏を訪問。彼はドイツのジョン・ラーベイ氏の家で難を免れた。70年前に日本軍が南京を侵攻した際、広州路4号に住んでいた。広州路2、6、8、10号はいずれもラーベイ家とつながっており、この一帯は国際安全ゾーンであったため、一家はラーベイ家に身を隠した。穆氏はこう当時を振り返った。「当時、ラーベイ家の屋根には大きなドイツの国旗、恐らく普通の国旗より数十倍も大きな国旗が掲げられていて、屋根全体を覆っていました。空から見れば、とくに目に入ります。日本軍機は低空に急降下して爆撃していましたが、あの国旗があったので、何度来ても爆撃することはなく、そこは安全でしたし、そのうち日本軍は来ようとはしませんでした。12月13日です。みんながラーベイ家に駆け込んだ、その夜のことですが、街全体に銃声が轟き、助けを求める声、泣き叫ぶ声が聞こえ、みんな恐怖のなかで一夜を明かしました。翌日の朝、外は平穏でした。外に出てみると、唖然としました。道路でも、川でも、横になったり、立っていたりするのはみんな死体でした。そのあと、避難してくる人が増えて、600人余りになり、みんなラーベイ家の庭で押し合いへし合いでした。ラーベイ氏はすごく忙しかったのでしょう、ひげだらけの顔でした」
南京大虐殺の生存者穆喜福さん(右)と妻の李世珍さん(左)
第三者の史料:多くの加害者と被害者の証言のほか、この数年来、南京大虐殺の期間に中立の立場にあった西洋人による第三者の資料が多数発見されている。
南京大学歴史学部博士課程指導教官で、南京大虐殺研究所副所長の張生教授を取材した際、昨年、米国立公文書館で南京大虐殺に関する資料を収集していたときに、極めて価値のある最高機密文書を発見したことを話してくれた。日本の広田弘毅首相が1938年1月17日、東京から米国の日本大使館に発信した機密電報だ。米国はそれを解読していた。電文の内容は「数日前、上海に戻り、日本軍の南京とその他の一部地方での残虐行為に関する報道について調べた。信頼できる目撃者が直接数えた、また信頼度の極めて高い一部の人の書簡にもとづけば、それは十分に証明できるであろう。少なくとも30万の中国平民が殺戮に遭い、その多くは極めて残虐で血なまぐさい虐殺だった」というものだ。張生教授は「これまでに収集した資料のなかでは、最も早く南京の30万人市民の殺戮に言及しており、証拠となるものです」と指摘。さらに「米国や欧州などでも、第三者による史料の発見が相次いでいます。個人的な判断や細部の描写はやや異なるものの、南京大虐殺が一つの歴史事実であることは広く認められているのです」と強調した。
平和と友好を願う日本人の感想
南京大虐殺を一緒に取材した日本の友人は、こう私に話してくれた。「最初は、取材したときに痛烈な言葉を浴びせられるのではないかと心配していましたが、取材してみて、中国の研究者はみな事実にもとづいて語り、冷静な気持ちになって自らの考えを述べているのだなと感じました。記念館を参観したときのことですが、歴史の資料が数多く展示され、そのなかに当時の日本メディアの報道があるのを発見して、非常に説得力があるなと思いました。記念館では深みのある、厳かな鐘の音色を聞きましたが、それは歴史をしっかりと心に刻むよう私たちに訴えているのでしょう。それは同時に、平和を呼びかける鐘の音色なのだとも思いました。父の世代が残した『南京大虐殺』というこの負の遺産に真摯に向きあって、孫の世代には『平和を大切にする』という正の遺産を継がせていくことが大切だと思いました」
坂倉氏の南京大学講演の会場で、私は大学を卒業したばかりの日本の青年、小川氏と話しをすることができた。「生存者の夏淑琴さんの証言を聞いて、南京大虐殺が中国の庶民を苦しめたことがよく分かりました。いずれは法律関係の仕事に就いて、従軍慰安婦のために正義を広める活動にずっと参加していきたいと思っています」。そして彼は感慨深げにこう語った。「今日、南京大学が主催した坂倉氏の講演会では、数百人の会場は南京の大学生で一杯になりました。日本ではこうしたすごい光景は全く見られません。日本の若者は中国に対しては関心が薄く、理解に欠けています。帰国したら、周りにいる若者に中国の文化や歴史を積極的に紹介して、中日両国の青年の間の友好協力のために力を尽くしていきたいと思っています」
「北京週報日本語版」 2007年12月10日 |