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生存者の声  
李秀英さんの証言

当時19歳で、お腹には7カ月の子がいた。1937年12月18日、日本兵がたくさんの男たちをつかまえて行った。二日目の午前中、日本兵がやってきた。わたしを連れていこうとしたけど、わたしは絶対に行かなかった。壁に頭をぶちつけて右の額のとこをぶちつけてクラクラとなって倒れた。

父がわたしの名を呼んで、なんか息を吹き返した。手で触ってみたら、短い髪の毛も額も血だらけになっていた。わたしは死んでも日本人に辱められたくなかった。

わたしは軍用ベッドに横になっていた。部屋には十数人かの女がいた。昼食のあと、また三人の日本兵がやってきて、室内の男たちを外に追い出した。そのうちの二人は一人が一人ずつ女を二人捕まえて行った。残った一人が腰に銃剣を下げてわたしの旗袍のボタンをはずそうとした。わたしは横になっていたけど、カッとなって刀を奪おうと思って、ガバッとおきあがると、腰の銃剣の柄をひっつかんですぐには引き抜けなかった。日本兵がわたしの腕をつかんで押さえつけた。わたしは頭突きをくらわせ、そいつの手にかみついた。片手に日本兵の服をにぎって放さず、二人で取っ組みあいになった。あの時はどこからあんなバカ力が出たものかねえ。あとの二人の日本兵が銃剣抜いてわたしの体にメチャクチャに突き刺した。頭に血がのぼっていたから、全然感覚がなかった。顔とか、耳のところ、鼻、目、口、脚のところと、メチャクチャにやられた。わたしは歯をくいしばって、いくらやられても感じなかった。太ももは一番たくさん刺された。わたしは血まみれになった。口の中に血が溢れてきて、それを日本兵に吐きかけた。そのあと、腹のところを突き刺され、それで倒れて何もわからなくなってしまった。

それからぼんやりと人の呼ぶ声が聞こえた。父が「秀英や、秀英や!」叫んでいて、何人かがわたしをかついでいた。わたしが死んだと思って、もう穴も掘って、わたしを埋めに行くところだった。

冷たい風に吹かれて、わたしは息を吹きかえした。口の中の血がゴボゴボいった。わたしはすっかり意識をもどした。子どもは流産していた。父はわたしが生きかえったのを知って、すぐに鼓楼医院にかついでいった。アメリカ人のお医者が傷口を縫ってくれた。全部で37カ所だと言っていた。

あの時は髪の毛は血のりが固まってゴワゴワになっていた。くちびるが一部ちぎれて、歯は全部なくなってしまった。

手術をしたときは、アメリカ人が写真や映画フイルムをとっていた。日本戦犯の裁判のとき、東京国際法廷でこの映画を放映した。

「チャイナネット」

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