可越女士:中国メディア人としての原則
在日13年になる可越女士は、努力して中日の間に全く新しい交流の場を築いた。
彼女の母方の祖父、司馬桑頓氏は中国メディアの在日特派員で、35年前、自ら中日関係の大転折を記録した。35年後、1人のメディア人として、可越女士は祖父の足跡を追い求めながら、レンズで彼女が見た日本を記録している。
13年来、彼女は一貫して中日関係の最前線にいた。恐れ、怒りを肌で感じ、また平穏や寛容も学んだ。
「中国に反日教育はない」
中国で小泉首相の靖国参拝への抗議行動が起こった際、日本のメディアはこの事件を追跡報道した。この間、彼女は人からよく「あなたがた中国はずっと反日教育を行っているのではないか」と聞かれたが、必ずはっきりと「ありません」と答えたという。
可越女士の原籍は黒竜江省。年長者はいずれも日本軍による東北3省侵略の時代を経験している。母方の祖母の家はもともと抗日の根拠地にあった。祖父は積極的な抗日戦士で、後にハルビン日報社の記者となり、日本軍に捕らえられたこともある。日本で仕事をするようになった後、祖父は牢獄に入れられた当時の境遇についていつも日本人に語ったという。彼女は振り返る。「日本人はよい人ですが、年配者の話を聞いていますと、彼らの日本に対する複雑な感情が分かります。歴史でも侵略戦争に関する史実を学びました」
80年代に日本のテレビドラマが流行し、彼女も「東京愛情物語」を見て東京に憧れた。「私たちの国は『反日教育』を行っていないだけでなく、日本を理解する教育を行っていると私は思っています。国交正常化以降、中国政府は一貫して国民に戦争の発動者と普通の日本国民を区別するよう教育していますし、後者もまた被害者です。私について言えば、日本は私たちの国を侵略したことがありますので、日本と言う国に対しては二重の感情があります」
DVで真実を伝える声
日本に行ってから、可越女士は日本に対して新たな感じを持つようになった。「本には書かれていない多くの矛盾を体験しました。私が感じたのは、まったく新しい、立体的な日本で、テレビのなかで描かれるような愛くるしいものではなく、戦争映画のなかで語られるような凶悪な姿でもありません」
日本に行って6年目、東京大学の修士課程に在籍中、彼女は「東京アングル」を立ち上げた。各人が家庭用ビデオカメラで監督になれるボランティア組織で、日本で撮った短いドラマDVをインターネット上で発表するというものだ。この組織を創設した理由を聞くと、「日本と言えば、すぐに思い浮かべるのは1つの国ということであり、東京は国際化された、表情の豊かな大都市です。庶民の角度から、東京庶民の物語を語りたいと思ったのです」との答えが返ってきた。
05年に中国で抗議行動が起きた後、日本のテレビ局はデモ隊の一部が投石する場面を繰り返し放送した。「実際、これは別の現象に過ぎません。ですが、日本のテレビ局は視聴率追求のためにこの場面を繰り返し流し、日本の聴衆にすべての中国人が投石し、この土地に足を踏み入れる人は誰もがぶたれるようかのように感じさせてしまったのです。実際はそうではありません」。彼女は座視することはできなかった。「何かしなければ!」
そこで彼女は、小型ビデオカメラを手にして家を出るようになった。日本にいる多くの中国人を取材し、レンズを通して彼らの声を日本の民衆に伝えたいと願っている。また、中国人と日本人がともに参加し、それぞれの思いを語り合う市民交流会を組織。だが、「一緒に語り合っても互いに理解できるとは限りません」。だが、すぐに成就するとの期待も抱かなかった。「そこには無知の問題がありました。例えば、ごく一部の日本人自身、南京大虐殺はなかったと思っているのです。無知は偏見よりずっと恐ろしい」
「中国食品の安全」を自ら体験
日本でこの数年、中日の間に波瀾が起きるたびに、可越女士も自ら苦しんだ。「とくに1人の日本にいる中国人として」。だが、まさにこうした時に、1個の人間としての使命感と責任感を体現することができた。「あなたしか出来ないことがあるかもしれない。そういうときは当然、すべきです」
数日前、朝日新聞社から中国食品の安全問題に関する座談会への出席を依頼された。彼女はその前に多くの準備をした。「日本の関連報道を検討してみて、あるメディアはある程度この事件を煽ることで、「中国嫌い」のムードをかき立てようとしているなと感じました。日本の庶民はこの報道を見れば、中国食品は安全でないと感じるでしょう」
座談会で、彼女は出席した日本人に「中国食品の安全には確かに一部問題があります。しかし、だからといって中国全体の見方を変えてはいけません」と訴えた。日本のメディアはさらに中国は責任を負わない、日本の環境を汚染したと常に批判している。「しかし、私は日本人にこう話しています。中国の黄砂はここに来れば少しのほこりに過ぎない。中国人はあなたがたよりもっと気をもんでいるのです」。日本は環境整備の技術や経験を中国ともっと分かち合ってほしいと彼女は願っている。
現在、日本のメディアが中国のマイナス面のニュースを報道すると、彼女は一種言い知れぬプレッシャーを感じるという。「私たち中国人はよく口争いしますが、これからはそうしてはいけないと思っています」
温家宝総理の訪日宴席に出席
しばらく前、中日関係が氷河期にあったとき、可越女士は、本当にかなり苦しい日々を過ごしたと端的に話す。安部首相の訪中、そして温家宝総理の訪日に伴い、中日関係は「氷融の時代」に入ったとメディアは評価した。
彼女は4月に温家宝総理を歓迎する晩餐会に参加。総理が語るのを聞き、思わず目頭が熱くなった。だが、中日関係がまだ「政熱経熱」の段階にないことは彼女も分かっていた。「実際には、両国の間には非常に多くの問題があり、トップの関係が良くなったからといって、こうした問題が順調に解決するとは言えません。双方はあまり感情的になってことを行うのではなく、関係が好転すればそれだけ、冷静に客観的にならなければいけません」
中日政府初の映画祭に尽力
可越女士の母方の祖父は常駐記者として日本に23年いたが、最後には「日本人はかつて犯した罪業に対する真の反省と謝罪について考えたこともなく、彼らは侵略戦争という行為について1日する反省したこともない。われわれは日本というこの土地で安らかに生活していくことはできない」との言葉を残して日本を去った。
歴史の認識問題はまだ解決されていない。だが、可越女士は祖父のように日本を離れる選択はしなかった。そして、「東京アングル」を基礎に、自らのメディアを開設した。
中日国交正常化35周年にあたり、彼女は調停役として中日政府の初の映画祭に尽力した。なぜ続ける選択をしたのか。彼女は「現在というこの時代は祖父の時代とは大きな違いがあります。中日間の問題はすでにそれに向き合わなければならないときに来ており、私たちには過去に比べて、事実を理解するとともに解決の方法を探し出すより多くの手段と方法があります。カギとなるのは、したいかどうか、どんな姿勢を選んで歴史に対処するかです」
可越女士は自ら努力して、中日の間に新たな交流の場を築いた。(文:国際先駆導報記者・一娜)
「北京週報日本語版」2007年11月14日 |