1971年9月、ちょうど20歳になった北京っ子の呉永琪さんは陝西省延安地区の農村に下放され、そこで2年間暮らした。生粋の標準語を話せるというので、陝西省博物館に招かれて説明員に。1978年12月、兵馬俑博物館に配置換えとなって文化財の修復と保護の仕事に従事。以来、30年近くになる。現在は同博物館々長。
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兵馬俑の修復技術を検討する呉永琪さん(左) | 「職場を愛し職務を尽くす」が呉さんの最大の長所だ。農民になった時、技術の最も優れた農民になろうと思い、どんな農作業もできないものはなかった。博物館の説明員になった時には、文化の知識が最も豊かな説明員になろうと考えた。中学しか出ていないため、古文の文献を読むのにたいへん苦労したが、1年後にすべて自分のものにした。兵馬俑の修復に従事するようになって、今度は最も忠実で最もふさわしい兵馬俑の守護者になろうと決意。兵馬俑1、3号坑遺跡の補強や保護、兵馬俑の修復と保護、彩色銅車馬の修復と複製、兵馬俑の彩色保護など重要な研究課題は、彼がリードして一つひとつ解決されていった。なかでも「1号銅車馬の修復技術」と「兵馬俑の彩色保護技術」はそれぞれ1997年、04年の国家科学技術進歩2等賞に輝いた。
兵馬俑の修復には非常に難しい過程が必要だ。1号始皇帝陵の銅車馬の傘の修復を例にしよう。この直径122センチの傘は316片にばらばらに砕けていた。最も薄いところでわずか1ミリ、最も厚くても4ミリに過ぎない。まず傘の弧度を精確に割り出さなければ、次ぎの作業に進めない。弧度の割り出しという過程だけで、呉さんは何日も頭を悩ませた。石膏でたくさん模型を作ってはそれぞれを比較検討。銅車馬の砕片は全部で3000を超えると言えば、その複雑のほどが分かるだろう。修復された車馬は、その完ぺきさで人びとをうならせた。
より多くの人に兵馬俑を観てもらうおうと、呉さんは02年から、国内外での巡回展に大々的に取り組んできた。兵馬俑博物館をベースに、始皇帝陵遺跡公園をバックにして始皇帝陵博物院を設立する、これが今の彼の最大の願いだ。
「北京週報日本語版」2007年9月14日
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