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厦門
【人々】鄭小瑛女史――国を愛する気持ち 音楽を熱愛する心

 

本誌記者 王文捷

新中国初の女性指揮者である鄭小瑛女史 

アモイと言えば、鼓浪嶼、この3つの文字が自然に脳裏に飛び込んで来る。ピアノの音色に包まれた音楽の島は、多くの人にとって景勝の地だ。音楽と言うなら、アモイ・フィルハーモニー楽団を挙げなければならない。

 2009年の仲夏、幸いにもアモイ・フィルハーモニー楽団の芸術監督、新中国初の女性指揮者である鄭小瑛女史を取材する機会があった。半世紀以上にわたり国内外の舞台で縦横無尽の活躍をすると共に、クラシック音楽の普及に尽力してきたこのハッカ人の女性は、物言い、立ち居振る舞い共に情熱に溢れ、颯爽としてかつ自由自在である。

祖国と運命をともに

 鄭女史の原籍は福建省永定。1929年に上海に生まれた。「青年になって、私の運命は祖国と共に歩むようになりました。戦火飛び交う抗日戦争の時代、周りの高まる愛国の雰囲気が私に強い影響を与えたのです」。鄭女史は笑いながら、激情に満ちた歳月を振り返った。48年、新中国建国の前年、彼女は父母の元を離れ、何ためらうことなく革命に参加。19歳。南京金陵女子大学生物学部予備科の学生だった。

「私はこっそり家を脱け出したのです。最初の2回は、母親に連れ戻されてしまいました。でも、3回目にようやく成功。私たちは長江をさかのぼり、武漢の赤軍地区にある中原大学文芸工作(文工)団を目指し、そこに着きました。でも当時、そこには楽譜を読める団員は一人もいなかったのです。団長が、ピアノを弾けると聞いて、私にタクトを取らせてくれたことが、指揮者としての生涯の始まりとなりました」

 軍太鼓を打つ、トロンボーンを吹く、田植え歌を踊る、端役を務めるなど、鄭女史は何であってもすぐに身につけるなど、文工団で表現力は際立っていた。公演で臨時に補欠が必要な場合には、いつも彼女に頼んだ。管楽隊が急に賓客を迎えることになると、彼女はすぐに紅い房のついたタクトを手に取り、指揮者となった。彼女が率いる規模の小さなこの楽隊は楊虎城将軍一家の棺を送迎したり、製錬工場を勇敢に守った労働者を慰問したり、中華人民共和国の誕生を祝ったりしてきた。

 鄭女史は「文工団の生活は私の人生の中で重大な転換点となり、革命文芸観を確立し、その後の指揮者として生涯に深い影響を与えました」と振り返る。

新中国初の女性指揮者

 52年、文工団は彼女を中央音楽学院作曲学部に派遣。これより、彼女はいろいろな伯楽と出会う。

「音楽学院の趙渢院長がずっと私を育ててくれました」。 55年、ソ連の専門家クラスの指揮を学ぶ機会を得、合唱指揮の専門家であるドゥマシェフー氏に師事した。クラスで唯一の女性として、新中国で初めて専門の研修を受けた女性指揮者となった。

 1年の課程を終えると、鄭女史は中央音楽学院に新設された指揮学部に戻り、主要課目の教師を務めながら、ソ連のバラシャオフー氏から引き続き指揮を学んだ。60年、モスクワ国立チャイコフスキー音楽学院に派遣されて歌劇を学んだ後、再びソ連に行き、大学院の課程で著名な教授アルスオフー氏と息子のロリジェストゥウェンスジー氏から歌劇と交響楽の指揮を学んだ。

「当時、私は自らの身に祖国の使命を背負っていることを深く感じ、負担は非常に重くとも、祖国の私への期待を裏切ることは決してできませんでした」。鄭女史はこう回顧する。

 61101日、クレムリン歌劇場でモスクワのベテラン音楽家からなるフィルハーモニー楽団を指揮。これが彼女の人生で初めてのシンフォニー音楽会となった。招待状には「この音楽会は私の祖国、中華人民共和国成立12周年を記念して行うものです」と、はっきりした字で書かれていた。翌年10月2日には同じ場所で歌劇「トスカ」を指揮、外国の歌劇の指揮台に立った中国人は彼女が初めてである。

指揮者として京劇に遭遇

 鄭女史は63年に中国に戻り、中央音楽学院指揮学部に配属された。愛国の気持ちが胸一杯に溢れる彼女は、学んだ知識を一つ残らず学生たちに伝えたいと矢も盾もたまらなかった。

「ただ残念なのは、祖国にしっかりと報告する間もなく文革が始まったことです」。鄭女史は感慨にふける。「まず、38軍に行かされ、その後に京劇団に行きました。そのころ京劇団も指揮者を必要としていました。ただ、それを契機にシンフォニーと歌劇の舞台から離れることになり、私の音楽の生涯は突然終わったと感じ、非常に苦悶し、絶望しました」

 幸いだったのは、音楽を熱愛する彼女がこの時間を無駄にしなかったことだ。「京劇団に行ってから、むしろ自分が理解していないことがあんなに多くあることに気づいたことで、知識を求める気持ちが頭をもたげ、非常に学びたいと思ったのです。最初に始めた時は理解できなかったのに、やがて伝統劇が内包するものに震撼されたり、自らの音楽の生涯をただ顧みて嘆息していたのに、やがて中国伝統の芸術家を尊敬したりするまで、この期間に実に多くのことを学びました。音楽の基礎ができたことで、仕事の中で規律を探し出すことができ、同僚に認められるようになったのです」

 文革がわが国の高尚な音楽の発展に及ぼした影響について、鄭女史は「歌劇とシンフォニーの発展に重大な損害を与えました。影響がより深刻だったのは教育の破壊です。そのころ、音楽の授業は中止され、音楽文化の教育は大きく後退し、非常につらい思いをしました」と話す。

「フィルハーモニーの女性」

 文革終結後、鄭女史は中央歌劇院の配属となった。だが8、90年代、市場経済の大きなうねりを受け、中央歌劇院というこの資本の消耗が巨大で、経済収益が不振な音楽団体は、発展に向けた過程で実に様々な困難と障害に遭遇した。

「人々は、流行歌手は一夜にして有名になり、一曲歌うとかなりのお金を稼ぐのに、私たちは『椿姫』を歌っても、雀の涙の報酬しかもらえないことに、ますます納得できなくなってきました。そこで、みんな次々に穴に入るようになり、流行歌を歌うようになったり、流行歌手のバックで歌ったりと、歌劇院全体が麻痺状態に陥ってしまったのです。こうした状況が20年も続きました」

 音楽を第二の命と見ていた鄭女史は、困惑する中で深く考え込むようになっていった。彼女は89年、チェリストの司徒志文女史とバイオリニストの朱麗女史とともに中国初の女性室内楽団「フィルハーモニーの女性」を北京で結成。完全なるボランティア組織、非営利の民間団体であり、内外の伝統的かつ高尚な音楽を次世代に紹介することを目的にしている。前後して70名余りの女性芸術家が「フィルハーモニーの女性」に加盟。大半が北京の各楽団の中堅または才覚を現し始めた青年たちだ。

「フィルハーモニーの女性」ことを持ち出すと、鄭女史は興奮を隠さない。「楽団が存在した6年間、私たちは報酬を考えることなく300回を超える演奏会を行い、学生たちから非常に歓迎されました。私たちは単に音楽のために努力したのであって、風が吹こうと雪が降ろうと、全く苦労だとは感じませんでした。その後、いろいろな理由から、解散せざるを得なくなったのですが、その時に全国の幾つものメディアが『去らないでほしい、私たちはあなた方を必要なのだ』と呼びかけてくれました。それから数年たっても、かつてのフィルハーモニーの女性のことを耳にしたりすると、非常に心が慰められますね」

アモイ・フィルハーモニー

 97年のある日、鄭女史は突然、福建省アモイ市から電話で、楽団を組織して指揮者に就任してほしいとの要請を受けた。「情報を確認しても、悩みました。アモイについては余り知らず、親しい人もいませんでしたが、最終的に要請を受け入れることにしました」

 ハッカの女性として、鄭女史はアモイの文化の奥行きを深く知り、音楽関連の夢を実現したいと強く期待している。アモイに骨を埋める決心をしたのもかなりの程度、広く伝わっている『嘉庚氏の精神』を理解したことに由来するのではないか。

 19世紀末、福建省同安県集美鎮(現在アモイ市に属する)に生まれた陳嘉庚氏は著名な愛国主義者、教育家、華僑実業家の領袖であり、「忠、公、誠、信」の精神、また「道徳と気力」や起業改革の意識を提唱しています。

98年にアモイに来てからずっと一生懸命にやってきましたが、陳嘉庚氏のように、私が知りできるところで貢献して、美しきものを共有したいと思っています。高潔の士を自任するわけではなく、営利を目的にしているのでもなく、ずっと私の音楽の宗旨である高尚な作品を求め続けてきました。高尚な音楽がますます多くの人に理解され、受け入られるよう希望しています」。鄭女史の眼は燦々と輝き、言葉の間に確かさとこだわりがきらめいた。

「芸術の規律をもとに一つの楽団を創設し管理することが、私の一番の喜びです。アモイでのこの十数年が最も愉しい日々だったのは、心の深くにある夢を実現したからです。私の芸術の生涯のピークはどこにあるかと聞かれるたびに、少しも迷うことなくアモイある、と答えています」。さらに鄭女史は笑いながら、「でも、それよりも望むのは、教師、音楽の種をまく人に見られることです」と語った。

世界の「土楼の共鳴」に向けて

 鄭女史は00年初め、妹の鄭小維さん一緒に父側の祖先の地である福建省永定を訪れた。祖父母に挨拶した後、永定で最も有名な「振成楼」を見学。広く明るい中庭に立ち、質朴で偉大な奇特な建築物を目にして、彼女は抑えきれない興奮を覚え、ハッカの濃厚な独特な風情に感動した。

 アモイに戻っても心は静まらず、少年時代に福建省西部で暮らしたことのある作曲家・劉湲似、ハッカの歴史と文化を素材にハッカの精神を讃える「土楼シンフォニー」を創作するよう依頼した。さらに、世界ハッカ研究会々長の鄭赤琰博士にハッカ人の過去と現在の紹介を要請。鄭博士と陳蔚芳夫人は香港から多くの資料と所蔵するハッカの山歌の映像と録音を持参するとともに、この作品を「土楼の共鳴」と命名するよう提言した。

 世界のハッカ族第16回懇親会が0011月に福建省竜岩市で開かれた。鄭女史はアモイ・フィルハーモニー楽団を率いて「土楼の共鳴」を情感豊かに演奏、数千人のハッカ人や強い共鳴を受けた。初演の成功に彼女は興奮した。これより「土楼の共鳴」は世界への旅に。07年からの「土楼の西洋の旅」をテーマにしたフランス、ドイツ、オーストリア、イタリアでの巡回公演は成功を収めた。

 メディアは、今年10月に鄭小瑛女史率いるアモイ・フィルハーモニー楽団がサンフランシスコで「土楼の共鳴」を演奏すると報道。在サンフランシスコ中国総領事館の孫建華・文化参事官は「サンフランシスコ各界が祝う新中国建国60周年の雰囲気が演奏で盛り上がるのは間違いない」と話している。

「北京週報日本語版」2009年9月29日

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