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西安
【出来事】員宗翰さん――60年に及ぶ秦腔との縁

 

秦腔の伝統芝居

1956年、員宗翰さんは渭南市白水県の劇団に来て農村の文化事業の発展のために努め、この劇団の主要な俳優となった。1950年代の白水県では、生活はとても苦しく、飲用水に困まり、交通も非常に不便で、県全体に自動車が1台通れる大通りがわずか1本しかなく、県都には写真屋、百貨店などいくつかの商店の建物しかなかった。

しかし、貧しい生活は別に白水県の人たちの芝居を見る情熱に響くことはなかった。員宗翰さんはかつて白水県で芝居を演じた時に受けた大歓迎の場面を思い出すと、深い感銘に浸り続けた。「当時の白水県の人たちにとって、芝居と映画を見ることは、わずか2つしかない余暇の楽しみであり、私達が農村へ行って芝居を演じることは、彼らにとって芝居を見ることができる唯一のチャンスでもあった」と員宗翰さんは語った。

「劇場もなく、電灯もなく、マイクもなく、照明はガス灯を使い、そのような『三無』の条件の下で、私達は白水県での公演を始めた」と員宗翰さんは回想している。一部の郷・鎮(町)は県の中心部からかなり遠く離れ、員宗翰さんと劇団の俳優たちは自分の布団をリュックサックのようにかついで、牛車に乗って農村へ出向かったのであった。

白水県の人たちは芝居を見る場合、入場券をを買う必要はなく、座席も要らず、入場した際にレンガを1つかかえ、それを腰掛がわりにした。なかには1015キロも遠く離れたところから駆けつけ、見終わってからまた歩いて帰る人たちもおり、大変疲れていたにもかかわらず、元気いっぱいで、道すがらにぎやかに談笑していた。

員宗翰さんの思い出によると、当時、彼が演じたレパートリーには『通天蕩』(周徳芳に扮する)、『邸宅に帰る周仁』(周仁に扮する)、『表門で息子を斬首』(楊延景に扮する)、『八着の衣服』(楊廉に扮する)、『白叮本』(狄仁傑に扮する。武則天が唐王朝の政権を奪い取り、それを自分の兄弟の息子武三思に譲ろうとしたことを演じるもの)、『生死の札』(黄伯賢に扮する)、『2つの鈴』(呉志海に扮する)、『劉介梅』(劉介梅に扮する。現代劇)、『朝陽溝』(栓宝に扮する。現代劇)などがある。

1959年、19歳の員宗翰さんにとって、彼の芸術家としての人生を続けていけるかどうかにかかわる年であった。この年に、員宗翰さんは「声変わり」の関門にぶつかった。多くの同じ年に生まれた男の子は、「声変わり」の後に発声域が広げられなくなったため、やむなく秦腔の演技芸術をあきらめることになった。員宗翰さんの「声変わり」は知らず知らずのうちに来たものであり、まったく言っていいほど兆候もなかった。ある日、員宗翰さんはちょうど出演があり、朝、発声を稽古していた時は、すべて正常であったが、舞台に登る時になると、突然声がかれ、声が出なくなったことに気がついた。

「その時、舞台の前でやじを飛ばす観客は一人もおらず、私に力強く支え、励ましてくれた」。員宗翰さんは今日にその一瞬を思い出すと、やはり涙を流して感激している。それ以後の1年間に、員宗翰さんは出演をやめて、芸術の「冬眠」に入った。彼は他の人たちのようにいくつかの民間療法を探して「声変わり」を治療しに行かず、この生理的現象を自然に乗り越えることを根気よく待っていた。1960年のある寺の縁日に、1年間舞台にのぼらなかった員宗翰さんは自分がすでにどうにかこうにか「声変わり」期を乗り越え、しかも声がさらに円熟し、さらに高くてよく響き渡るものになっていることに気がついた。興奮した員宗翰さんはその縁日で自分の秦腔に対する熱い気持ちを思いきり表現した。

19606月、員宗翰さんは陝西省西安市で催された第1回秦腔青年俳優公演コンクールに参加した。それは彼が初めてスケールの大きな秦腔の公演コンクールに参加するものでもあった。このコンクールで、員宗翰さんを主演とした『打鎮台(県知事王鎮の法廷を暴れる)』 (王鎮に扮した)と『嘉興府』(陳殿栄に扮した)はセンセーションを引き起こした。その時の名家は次のように論評した。「『打鎮台』と『嘉興府』はあらゆるの秦腔のレパートリーの中で歌いの技巧としぐさに対する要求が非常に高いものであり、員宗翰さんのように声がこのように高くてよく響き渡り、立ち回りの基礎が非常にしっかりした男優は今では非常に珍しい。」

その後の数十年間に、員宗翰さんは相前後してさらに馬健翎、李正敏、袁多寿、韓盛蚰などの大先輩の心のこもった教えを受け、相次いで秦腔の伝統演劇、新編歴史劇、現代劇の大小レパートリー数十の舞台げいこをし、公演したことがあり、一連の生き生きとした舞台芸術のイメージを形作った。その代表的レパートリーには『趙氏孤児』(程嬰に扮する)、『飛虹山』(王乃に扮する)、『十五貫の銅銭』(況鐘に扮する)などがある。

長年にわたる芸術の実践の中で、員宗翰さんは先輩の演技を受け継ぎ、周りの同僚たちの演技を参考にし、他の人たちの長所を広く吸収し、11歩と自分の芸術スタイルを形成した。演技の面で人物の内面を表現することに長じ、演技もあか抜けして安定し、柔と剛を兼ね備え、質朴で深味があり、他の劇種の長所、例えば京劇の老生(中老年の男性役を演じる役柄)の体つきやしぐさ、蒲劇(山西省の地方芝居の一つ)のつけひげと帽子の翼の演技、昆曲の足取りと指の動かしなどを吸収し、それを自分の演技に溶け込ませることに長じている。唱(うた)の節回しの面で、唱、セリフの味わいの技巧を継承することを踏まえて、京劇の花臉(ホァリェン、役柄の一種)の節回しの共鳴のある特色を大胆に吸収し、科学的な発声法を運用し、秦腔の老生の歌唱法を模索する上で新たな道を切り開いた。彼の声は高らかで澄み渡り、節回しには丸みががあり、なめらかで、すらすらと流れるようで、味わいが濃厚で、声もよく、情調もたっぷりであった。特に『紅灯記(現代京劇の出し物)』の中の李玉和の節回しに似ており、彼の代表作とも言え、今なお広く伝えられており、「銭浩亮(現代京劇『紅灯記』の中で李玉和の役に扮した俳優)二世」と称えられた。

すでに定年退職した員宗翰さんは、今でもその数十人の弟子に秦腔芸術に対するみずからの蓄積とこれまでの経験を伝授することに努めている。彼にとって、かつての秦腔というジャンルの一小学生から今日の大家となるに至るまで、秦腔はすでに彼の体に溶け込み、切り離すことのできないものとなった。

員宗翰さんのプロフィル

員宗翰さんは1940年に生まれ、陝西省咸陽市の出身、著名な秦腔演技の芸術家、陝西省伝統演劇研究院の国家A級俳優、中国演劇家協会会員、陝西省秦腔研究会副会長。

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